アーティスト 加藤雄太 のブログ
展覧会のレヴュー、本の感想、その他制作の日々の模様など。
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『タッソオ』
本『タッソオ』
タッソオ』 1788年
著:ゲーテ 訳:実吉捷郎 (岩波文庫) 630円
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ほんと〜〜に久々の本のエントリー(汗)。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)[1749-1832]は、ドイツの小説家・詩人。その才能は文学に留まらず、科学や哲学にも及んだ。シラーとともに、この時代のドイツを代表する文学者。
ゲーテ自身が「詩は10歳のころから作り始めた」と言っているが、現存する最古の詩は8歳の時のものである。
ゲーテの父は、ゲーテに家庭教師を数人つけて教育を施した。語学に長けていたゲーテは、少年時代で既に、英語・フランス語・イタリア語・ラテン語・ギリシア語・ヘブライ語を習得していたらしい。
あらゆる分野に興味を持っていたことは、例えば『色彩論』という色彩に関する論文があることからも分かるだろう(僕は未読)。そして、ゲーテといえば『ファウスト』であるが、これは着想から完成まで、実に約60年かかった。
もう1つ、有名な作品と言えば『若きウェルテルの悩み』であるが、これは以前に記事で書いた。
82歳で死ぬまで、恋にも研究にも著作にも精力的に生きたゲーテ。死ぬ前の最後の言葉「もっと光を!」は有名である。

そんなゲーテの戯曲の1つがこの『タッソオ』だ。
タッソオは、フェラアラの公爵に仕える詩人である。この詩人の詩作に対する極度のこだわりに見る内面性、公爵の妹に恋をしている心情。これらにより、極度に神経過敏で感じ易いタッソオは周囲への懐疑心により人生を狂わせていく。
登場人物はほんの数人で、場所も庭園と屋敷のみで、極めて少ない要素だった。

正直、イマイチ。
本の内表紙には、「詩人タッソオに仮託して芸術家としての苦悩を表白した戯曲」とあったので期待したのだけれど、少々期待しすぎたのかもしれない。
なんだかすごい天の邪鬼と言うか困ったさんを見ている感で終わってしまった(苦笑)。

ということで、あまりおすすめは出来ません。でも流石文章は流れるように進んでいました。
物語としては、僕はあまり楽しめなかったけれど、それぞれの台詞にはハッとさせられるものがあり、やはりゲーテだなと思わされます。

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いちど好運な手で確實につかんだものを、
ながく持ち續けることもめったにありません。
はじめ私たちに身を委ねたものもむりに離れ去り、
むさぼるように握ったものも私たちは手放してしまいます。
幸福というものはあるのでしょう。しかし私たちはそれを見知っていません。
見知ってはいるのでしょうが、それを尊重することを知らないのです。
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吾々は常に望みを失いません。そして何事につけても
絶望するよりは希望するほうがましです。なぜといって
可能の範圍をはかることが誰にできましょう。
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ちなみに、タッソオは1544年生まれの、実在した詩人らしい。
『ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感』
本『ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感』
著:宮下誠 (光文社新書) 893円
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またまた電車用として持ち歩いていた本です。

いわずと知れたピカソの代表作《ゲルニカ》について書かれた本。
著者の宮下誠さんが、惜しくもついこないだである5月23日に急逝されたことを知り、積んであった本書を読み出したのだ。

世の中には数多くの美術書があるが、この本のように1点の作品のみで完結する本は珍しいだろう。
最初から最後まで、《ゲルニカ》について考察されている。

一応ごく簡単に書いておくと、1937年、スペイン内戦で、スペインの小さな都市ゲルニカが、ナチスによって空爆された。これは、軍事基地を狙ったものではなく、普通の生活地域も対象となり、多くの犠牲者が出た。これが人類史上最初の無差別空爆である。
パリで新聞やラジオにより、この事件を知ったピカソは、当時依頼されていた万博のパビリオンを飾る壁画の画題をこの事件に決め、約1ヶ月で完成させる。それが《ゲルニカ》である。

ゲルニカといえば、ピカソの愛人ドラ・マールが撮影した途中経過の写真があることは、有名である。
この本にはその制作過程を撮影した写真全てや、ゲルニカの為のアイディアスケッチののようなものなど、図版が豊富に収録されている。
そういった資料が日付順に並んでいて、なんと1日1日の変化を追いながら、ピカソがどのようにゲルニカの構想を練っていたかが書かれている。こういった創作の秘密を垣間みれるのも、ピカソらしく大胆に変わる構想を追っていくのも、非常に興味深かった。
本当に、あれこれと試みながら探っているのが分かりました。

著者の意見も独特で、それをズバッと開陳している点も良かった。
変に決まりきった話、というのではなく、私はこう思う、という考えがところどころ述べられていて、聞いていて面白い。

たった1つの作品で、ここまで語らせてしまう《ゲルニカ》という作品のすごさ。
これは取りも直さず、作品が未だに生きている証拠だろう。
本当に良い作品は、そうやすやすと理解し尽くさせてくれない。これは先日の『ゴーギャン展』の際も書いた通りだ。

1つの作品と真剣に向き合うとはどういうことか。
絵画や芸術が持つ力とは何か。
必ずや、本物を観に行きたいと思う。
『今、ここからすべての場所へ』
本『今、ここからすべての場所へ』
著:茂木健一郎 (筑摩書房) 1680円
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今回も電車用に読んでいた本。
このブログでも、何度か登場した茂木健一郎さんの本。
季刊誌『風の旅人』に連載されていたエッセイをまとめたもの。余談だけれど、『風の旅人』は写真家の港千尋さんが、写真誌の中で1番クオリティが高い写真が載っている雑誌、と授業で言っていたのを思い出す。港先生は、未だに僕にとって最大の知の巨人だ。

内容を限定すること無く、様々なエッセイが綴られている。
茂木さんの本は、読むと元気が出るというか、「あぁ、がんばるか」となる。この本もそうだった。

この人はこんなに思索しているのか!と驚く。
無関心でいると、日々はただ淡々と流れていくが、好奇心を持っていたりアンテナを張っていたり、つまりは日常に潜む扉を見つけようという自分いれば、こうも世界は様々なことを思わせてくれるのか。それを常に実践できている、感度の高い人なのだろう。
ロマンティック・アイロニーとは、彼が度々大切だと説くことだけれど、そうなんだなぁ。

ちょっと、世界の透明度というか、輝きが違って見えてくる。

色んなモノと出会った時に、どこまで思いを巡らせることが出来るか。
むしろ、出会いに気づくことが出来るか。
そして、そこから如何に宇宙を拡げていくか。
生を濃密にする鍵の1つは、そこにある気がしている。
すっと視界の抜ける瞬間を大切にしたい。


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目があるから見えるのではない。目があるにもかかわらず見るのである。

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『現代アートバブル』
 本『現代アートバブル』
著:吉井仁実 (光文社新書) 777円
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これも電車用に読んだ本。
これが執筆されたのは、リーマンショック以前。まだアートバブルがはじける前で、現代アートが高騰している頃。

著者の吉井仁実さんは、清澄白河のギャラリー hiromi yoshii のオーナーである。元々、お父さんが銀座の吉井画廊の経営者で、幼い頃から文化人が家に来る環境にあったらしい。
仁実(ひろみ)という名前も、武者小路実篤がつけたものでだし、小林秀雄が家に来ては、まだ幼い吉井さんのベッドで寝てしまったり、などというハンパじゃない美術のバックグラウンドがあった。
吉井画廊で勤務するも、現代アートに惹かれていた吉井さんは独立し、最初は六本木の芋洗坂、そして現在は清澄白河でギャラリーを運営している。
今や、現代アートに関心のある人ならまず聞いたことがあるであろう、日本を代表するギャラリーの1つですね。

さて、アートがファッション雑誌でまで特集されたりしている昨今、ブームに乗っかって出版されたのかと思い、あまり期待せずに読んでみたのだけれど、この本は個人的に面白かった。
真摯な内容。

911がアートに与えた影響、色んな作家の作品の解説も少々、現代のコンテンポラリー・アートの特徴、などが初めに語られる。
その後、ギャラリーを立ち上げるまでの経緯、開廊間もない頃の話とか、あるいは、現在のアートフェアなどアートマーケットの状況とか、自身のスケジュールを公開してギャラリストが一体どんな仕事をしているのか、など、この辺かなり面白く読めた。
世界は広いんだ、と読みながらぷるぷるしてました(笑)。

で、全体を通して流れているのは、敷居が高いと思われがちで、なかなか入りづらいと感じられてしまうギャラリーという場所が、いかに身近にあって、気軽に訪れて良い場所なのか、ということ。日本人のライフスタイルとアートの鑑賞や購入を、もっと親密なものにしようという思いである。

よくわからないと思われがちな現代アートの楽しみ方、接し方、ギャラリーを訪れてどうすれば良いのか、など、これを読むと、少しは壁が取り除かれることと思います。僕としても、そうして少しでも多くの人が気軽にギャラリーに足を運んで欲しいです。

独立間もない頃、とあるおじいちゃんと孫がギャラリーを訪れて、両親が共働きだから面倒を見ているのだけれど、おもちゃ屋とかに行っても買い与えてばかりだし、映画に行ってもお互い観たい映画は違う、しかしここには共通に興味を感じるものがあり、楽しみながら孫と会話をすることが出来た、と感謝された話。
恋人の誕生日に絵をプレゼントしたい、と言って相談してきた人の話。
ボーイフレンドが初めて部屋に来るのだけれど、知的に見せたいから何か部屋に飾る絵を紹介して欲しい、と言ってきたOLさんの話。
勿論、こんなのは数少ない例なのだろうけれど、でも少しずつでもこういう状況が生まれていることを知れて、ちょっと嬉しかった。

最近は、この手の本で、ビジネスビジネスしていたり、やたら作品の破格の価格っぷりや、世界の富豪達の話がほとんどのものが多い中、この本はそういうところにばかりフォーカスせずに、普通に嫌悪感無く、ギャラリーという場所やコンテンポラリー・アート(=現代アート)に興味を持てる内容なのではないかなと思う。
『ちいさいぶつぞう おおきいぶつぞう』
本『ちいさいぶつぞう おおきいぶつぞう』
 『ちいさいぶつぞう おおきいぶつぞう
著:はな (幻冬舎文庫) 560円
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すっごい久しぶりの本の記事。
阿修羅のこともあり、何となく読んでみた本。

はなちゃんは、美術のことにも造詣が深く、外国語も堪能で、そんな実は変化球の持ち主な所とか好きなので、電車移動中用の本として購入。
奈良京都の20のお寺を巡り、それぞれの仏像を訪ねるという内容。

東洋美術を専攻していただけあって、本当は難しいこととかも知っているのだろうけれど、文章は全くそんなことはない。
まさに女の子(と言って良いのだろうか)が書いたエッセイという感じで、寺によっては仏像よりも移動中の出来事とか+アルファの内容の方が多いものもあったりと、すごくユル〜イ仏像エッセイとなっています。なので構えずに読めます。

仏像のことを真面目に知りたいと思って読んではいけないですが、お寺訪問の旅行エッセイというつもりで、気軽に気分転換くらいの気持ちで読む分には良いんじゃないかな、と。

お寺に近づいていく時のワクワク感とか、修学旅行生のいるあの雰囲気とか、ちょっと思い起こしたりしながら、さらさらと読んでいく。読んでると、旅に出たくなっちゃいます。
仏像に対面した時の、独特の素直な感想とか面白いです。かなりあっけらかんとして。
あいだあいだにミニ知識とかも挿入されていて、小ネタを仕入れたり。

それにしても、はなちゃんはほんっとうに仏像が好きなんだなぁ。よく伝わってきます。
気軽に読める1冊。
ピカソの生涯が日本語になって蘇る
ピカソの世紀 キュビスム誕生から変容の時代へ 1881-1937
著:ピエール・カバンヌ 訳:中村隆夫 (西村書店) 5775円
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本『ピカソの世紀』

ついに出ました…。
まだかまだかと思っていた、この本が…。
『ピカソの世紀』
N先生こと中村先生翻訳のピカソの伝記です。

僕がまだ大学在学中、そう3年生頃からだったかなぁ、ずっとこつこつと翻訳をされて、出るぞ出るぞとは言われながら、様々なオトナの事情で出版が延びに延び…。当初に聞いた予定からは2年ぐらい遅くなったのじゃないだろうか。
そんな、思い出深き本が、この程ついに出版となりました!!

内容は、世界一詳しいとされるピカソの伝記です。
全2冊なのですが、まず今回はその最初の1冊。ピカソの前半生編とでもいいましょうか。それにも関わらず、1000ページ近いヴォリューム!!
世界一詳しいだけあります。

「今の時期のUT君だからこそ、ピカソの言葉とか、読むとすごく得るところがあると思うよ」と前から言われていたので、心待ちにしていた僕。何に出会えるか、今から楽しみであります。

「間違いなく僕の代表作の1つになる」と先生自ら言う程の内容ですし、それだけ気合いも入っているのだと思います。
後半の翻訳も頑張っていただきたい!

長い間苦労して翻訳をしている姿をずっと見て来たので、こうして実際に書籍という形になって書店に並んだことが、自分の事ように嬉しく、こうして応援紹介記事を書いている次第です。
悪い本なわけがないので、見かけたら手に取ってみてくださいね♪
『イン・ザ・ペニー・アーケード』
イン・ザ・ペニー・アーケード』 1986年
著:スティーヴン・ミルハウザー 訳:柴田元幸 (白翠uブックス) 998円
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本『イン・ザ・ペニー・アーケード』

スティーヴン・ミルハウザー(Steven Millhauser)[1943-]は、アメリカの小説家。解説によるとミルハウザーは、大切なのは作品であって、作者は前に出るべきではない、との考えを持っているようで、あまり細かいことは知られていないらしいし、本書の解説にも書かれていない。

前々から気になる作家ではあったけれど、今回の作品で初めてミルハウザー作品を読んだ。そして、面白かった。

主に主人公となるのは少年たちで、これがミルハウザーの特徴らしい。
少年たちの視線を通した、とてもとても無垢な世界。本当にきらきらとしている。
かといって、子供の読み物、とかそういうことは一切なく、重厚な物語だ。

これは全三部、全七篇による短篇集なのだけれど、その全てが創造力に富んだ夢幻的な妖しさを秘めている。
夢幻的という言葉が本当にぴったりと合う…。

殊に第一部を占める『アウグスト・エッシェンブルク』。時計師の息子の少年が主人公であり、もともと複雑からくりは得意だった。ある日、美術館で観たからくり仕掛けの絵がきっかけで、からくり人形師になるのだが、これが面白い。
時計の領域を飛び出してからくりに興味を持つきっかけになる美術館でのエピソード。そこに描かれているのは、間違いなく1人の少年の姿だ。
そして、天才からくり人形師となっていく過程。
契約先での出来事。
登場人物たちとの会話に織り交ぜられる芸術論。
ただのファンタジーという言葉に集約できない深みのある話。その中に、そういった全てが入っていた。

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芸術作品の正しい目的は、見ている人間を静かな瞑想に導くことであって、驚かすことではない。
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全ての話を通しての印象は、夜更けにひっそりと街角で行われているサーカスのテントをこっそりと覗き見る感じ。闇にふわっと浮かび上がるテントから洩れたオレンジの灯り。そんな色彩を感じる。

現代のアメリカ合衆国の作家で、こんな人がいることが嬉しいし、作品が読めて良かった。
自由な視線が紡ぐ、妖しく魅惑的な物語。
ハッとさせられるフレーズにも多く出会える、完成度の高い1冊。おススメです。

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下を見ると、裏庭が消えていた。代わってそこには目もくらむ真白い海があった。こんもりと盛り上がった、不動の波をたたえている海。もしその瞬間に僕の視線がそれを捕えることがなかったら、波は間違いなく砕け落ちていただろう。(『雪人間』)
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『サロメ』
サロメ』 1891年
著:オスカー・ワイルド 訳:福田恆存 (岩波文庫) 378円
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本『サロメ』
オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)[1854-1900]は、アイルランドのダブリン出身の小説家、戯曲家。今回の『サロメ』や『ドリアン・グレイの肖像』などで知られる。
1895年、人気を博した作家となっていたワイルドであったが、同性愛により逮捕され、刑務所暮らしとなる。この後は悲惨な人生であった。97年に出所するが、服役中に破産宣告を受けた。晩年はセバスチャン・メルモスという名で過ごし、パリで死んだ。

ワイルドは『サロメ』をフランス語で書いた。
そして、挿絵を描いたのはビアズリーであり、曲を書いたのはリヒャルト・シュトラウスである。
ワイルドは1891年にこの作品を書いたが、出版は1983年だった。英語版は1984年の出版である。
今回、岩波文庫版で読んだのは、ビアズリーの挿絵18点が収録されているからだ。訳は古い言葉が目立つが、しかし逆に古典作品らしさが出ており、作品の妖しさが醸し出される翻訳だと思う。

さて、サロメについて少し説明しておこう。
キリストの死は日本人にも深く浸透しているが、洗礼者ヨハネがどのようにして死んだかは意外と知られていない。このヨハネの死と深く関係があるのがサロメだ。
しかし、サロメは聖書の中にもわずかしか登場しない。新約聖書のマタイによる福音書とマルコによる福音書にわずかに見られるだけである。しかも、「サロメ」という固有名詞は登場しない。
そんなサロメを有名にしたのは、ギュスターヴ・モローの《出現》である。このことについては以前書いたので、そちらを参考にどうぞ。モローはこのサロメの物語を、生と死、男と女、愛と憎、など様々な対立要素を1つの画面に見事に収め、魅力的な作品とした。

そんな妖しげなサロメの世界の見事な戯曲が今回のワイルド作『サロメ』である。
サロメはユダヤの王ヘロデ(本書中ではエロド)とその妃へロデア(本書中ではエロディアス)の娘である。ヘロデは兄ピリポを殺し王の座についたのだった。
ヘロデアは自分を淫らだと言ったヨカナーン(洗礼者ヨハネ)を大層嫌い獄中に繋いだ。本当は殺してしまいたいが、王ヘロデはヨカナーンが聖人であることを知り非常に恐れる。聖人を殺すことなどもってのほかのわけである。
宴の席で、ヘロデはサロメに色目を使う。サロメはそれを嫌うが、ヘロデは自分に踊りを見せてくれたら、何でも好きなものを与えよう、と言う。サロメは本当に「何でも」くれるのか念を押し、王が間違いないと約束したので踊るのだが、これが「7つのヴェールの踊り」だ。
踊り終わり、何が欲しいのか王が聞くと、サロメは…
「銀の大皿に乗せて……ヨカナーンの首を」と答える。サロメはヨカナーンに恋をしていたのだ。しかし、ヨカナーンに口づけを求めても当然ヨカナーンは異教の女など受け付けない。そこへこうして絶好の機会が訪れたのである。
当然ヘロデは衝撃を受け、それだけはならぬっ!と断り、他のものなら何でもやるから、それだけは勘弁してくれというが、サロメは一向に譲らない。
「ならぬ」「ヨカナーンの首」「ならぬ」「ヨカナーンの首」が続くが、ついにヘロデは兵に命じ、ヨカナーンの首を持ってくるように言う。
銀の盆に乗って運ばれて来たヨカナーンの首を見て、恍惚となるサロメ。そして、その口に口づけし、「ああ!あたしはとうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン」。

これが、戯曲『サロメ』の流れである。
なぜ長々解説したかといえば、この中には、象徴主義の文学や美術に見られる重要な観念が入っているからだ。
象徴主義を語る時に、引き合いに出されるのが、次のポーの詩だ。
「この眠り込む、薔薇の香りを吸えば」
薔薇はもう生命を失っている。しかし、死んだ薔薇故に永遠に匂いを発し、美しさを保つのである。
このことが、サロメのヨカナーンを求める態度に見られるのは、もうお気づきのことであろう。
サロメはヨカナーンに恋を打ち明けても、一向に手に入れることができなかった。
しかし、ヨカナーンを殺すことによって、サロメはヨカナーンを永遠に所有したのである。
19世紀末という時代に、象徴主義の芸術家が見出した美がここにある。

このような妖しい魅力を持ちながらも、近づくと自らの身を滅ぼされてしまうような女を「ファム・ファタル(femme fatale)(宿命の女)」と言う。ファム・ファタルの代表は、このサロメ、と、スフィンクスだ。
ファム・ファタルを題材にした作品は多い。

本自体は薄く、戯曲なのでさらっと読める。
そして、妖しさに満ちあふれた内容だ。
作中には「月」が多く登場する。この月がまた象徴的なのだ。この夜に何かが起こる全長のような光を放つ月。登場人物たちも、この月の光に嫌な予感を受け、恐れる。
徐々に何かが起こりそうな雰囲気や、サロメのクレイジーっぷりが加速していく様は、本当に見事だ。

短いながらも完成度の高い物語です。
そして、新たな芸術の世界への入り口となるかもしれません。オススメの1冊。
『ノア・ノア』
ノア・ノア タヒチ紀行』 1893年
著:ポール・ゴーガン 訳:前川堅一 (岩波文庫) 483円
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本『ノア・ノア』

絵画における僕的ツートップの1人、ゴーギャンの著書。内容は、ゴーギャンのタヒチ滞在の模様を描いた紀行文である。

これがどーってこと無い。暇つぶしにどうぞ、という感じである。
故に、ゴーギャンについて、簡単に書いてみようかと思う。

ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)[1848-1903]はフランスの画家。セザンヌ、ゴッホとともにポスト印象派を代表するアーティスト。しかし、分類としては象徴主義にするのが通である。
父は共和主義のジャーナリスト。そして、祖母はフローラ・トリスタン。彼女は女性初のフェミニストとして有名で、女性解放運動を行った。ちなみに名前の意味は“悲しみの花”。
17歳で学業をやめ、見習い水夫となり、リオ・デ・ジャネイロへ初航海。その後、海軍に入り、北極圏を航海した。
71年には、株式仲買人となり、証券会社に勤める。73年にメットと結婚。シュフネッケルのすすめで、絵画への関心を持ち、絵を描き始める(趣味として)。
この後、けっこう滅茶苦茶な人生に…。
76年にサロンに入選。その後、ピサロやドガと知り合い、印象派展に出品した。
83年、35歳の時に株式仲買人をやめ、画家になる決意をする。けっこうスタートは遅かったのだ。
しかし、貧乏で家族と別居。妻のメットはコペンハーゲンに。ゴーギャンは86年にポン=タヴァンへ行き、絵が変わる!この後、ポン=タヴァンとル・プリュドゥを行ったり来たり。アルルでゴッホとの有名な共同生活も。しかし、アルルへ行った理由は、生活費がかからないからという曲がった理由であった(生活費はゴッホの弟のテオ持ち)。
パリにも戻ったりしたが、文明生活を嫌う。

そんなこんなで、1891年に、タヒチへ。第1回目のタヒチ滞在だ。本書『ノア・ノア』はこの第1回タヒチ滞在の模様を描いたものである。
タヒチでは文明に侵されていない文化に感銘を受け、自身の楽園を求めた。
2度目のタヒチ滞在では14歳の愛人を持ったり子供が生まれたりと、なかなかの奔放っぷりを発揮しながら制作したゴーギャン。

タヒチに何を求めたのか…。
ヨーロッパの息吹が、文明が、浸透していない世界。生命の輝き。そういった楽園を求めてゴーギャンはタヒチに滞在した。しかし、ついに見つけられずに、絶望のうちにゴーギャンは死ぬ。
97年には、自殺を決意し、大作《我々はどこから来たか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?》を制作。その後、砒素を飲み死のうとしたが、あまりに多く服飲したため、嘔吐しすんでのところで生き残った。
1903年に心臓発作で死んだ。

地上に楽園を見出そうとしたが、それが出来なったゴーギャン。苦悩のうちにも、眩い生命の筆跡は掴んだ。
ゴーギャンの作品は、輪郭をはっきり描いて、内部を平面的に塗った絵ではあるが、そこには見事な調和がある。「抽象」はゴーギャンがこだわり続けたことであり、故にゴーギャンの絵には、対象のエッセンス、つまり本質が濃く、しかし不可視に定着されているのだろう。
写実の無意味性を説き続けたゴーギャン。己のうちで昇華させ定着させたタッチは、精神によってより澄んだものとなり、タヒチで触れた原色の世界によってより輝きを増したのだと思う。

「助言を1つ。あまり自然に即して描いてはいけない。芸術とは1つの抽象なのだ。自然を前に夢見つつ、自然から抽象を取り出したまえ。そしてその結果として生じる創造のことをより多く考えたまえ。」

しばしば目にするカッコいいフレーズがある。誰の言葉か忘れたが、
「絵画は無声の音楽であり、音楽は有声の絵画である」
というものだ。レッシングは『ラオコオン』の最初でこれを否定している。ゴーギャンもまたそうなのである。つまり、時間である。一目見れば、絵画や彫刻は全体を把握できるということである。絵画の力を信じたゴーギャンは、絵画はあらゆる芸術の中でもっとも美しいものだ、と言った上でこう言っている。
「すべては一瞬のうちに尽くされるのだ」

「なぜ枝を垂らした柳が“泣いている”と呼ばれるのか。それは下降する線が悲しいからだろうか。大カエデが悲しいのは、墓地に植えられているからだろうか。いや、悲しいのは色なのだ。」
『みずうみ 他四篇』
みずうみ 他四篇』 1849年
著:シュトルム 訳:関泰祐 (岩波文庫) 420円
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本『みずうみ』

テオドール・シュトルム(Theodor Storm)[1817-1888]は、ドイツの作家、詩人。
弁護士の息子として生まれ、自身も大学で法学を学び、卒業後弁護士となる。その後、国同士のいざこざによって、判事になったり、あるいは故郷フーズムの知事になったりした。つまり、実に人生の大部分をこういった法務に従事した作家である。しかし、30歳頃には、既に抒情詩人として知られていたようだ。最終的には、ドイツを代表する作家の1人となる。
テオドール・シュトルム

今回の本は短篇集。表題作の『みずうみ』の他、『マルテと彼女の時計』『広間にて』『林檎の熟するとき』『遅咲きの薔薇』、が収められている。
『マルテと彼女の時計』(1847)が、シュトルムの処女作であるらしく、しかし、既に魅力的な作品となっていた。

色々と小説や論文を読んでいる中で、文章中にたびたび「湖畔」という作品の名前を目にした。この「湖畔」はきっとシュトルムの「みずうみ」のことだろう、と僕は思い、気になっていたので読んだのである。

今、残っている印象としては、やはりまず、綺麗です。そして、静か。
「みずうみ」という題名の力もあってだろうけれど、作品全体の感じとして、まだ若干肌寒い早朝、森の中の、多少霧のかかっている湖畔のような質感を感じる。湖面が静かにゆっくりと漣がたっているような、そのしんとしている振動を見ているような。
静かさと郷愁で満たされた、美しい世界。

暗い室内、薄ぼんやりとした室内、作品の持つ色調としてはそういった感じだが、それはそれはとても澄んだ、心地よい冷たさなのだ。

そういった印象ばかりが残っていて、話の内容自体が回想されないので、いつかまた読み返してみたいですね。