アーティスト 加藤雄太 のブログ
展覧会のレヴュー、本の感想、その他制作の日々の模様など。
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『遠藤利克 空洞説―水の座』
 一昨日スカイ・ザ・バスハウスへ行ったんだけれども、18時閉廊に間に合わなかったのでリベンジ。

展覧会『遠藤利克 空洞説ー水の座』

 『遠藤利克 空洞説―水の座』という展覧会。

 どうしてもこの展示は観ておきたかった。それはこの夏行く予定の『越後妻有アートトリエンナーレ2015』で「森の学校キョロロ」にこの遠藤さんの作品があり楽しみにしているのだ。

 今回の「空洞説」というシリーズは10年前にここスカイ・ザ・バスハウスで行った個展から始まったらしい。

 さて、今回の展覧会、ギャラリー中央の床をくり抜いて空洞を作り、そこにひたひたになるまで水を満たし、そこに鉄の板を乗せた作品と、壁には同じ鉄の素材で出来た棺型の箱が垂直に展示されている。
 つまり、部屋の中央に水を満たし大きな鉄の板で塞いだ穴があり、その正面に対峙するように棺型の箱がある。この2つの関係性でのみ作られたインスタレーション。

 大きな2つの空洞という“ゼロの質量”が作り出す空間は、その物質性やミニマルさから、アニッシュ・カプーアや、NYのDia:beaconで観たリチャード・セラマイケル・ハイザーに通じるものを感じ、とても好きなタイプの作品だった。

 空(くう)とか、消失した質量を、逆説的にとても重厚に感じさせ、広がりや深みを与える作品は、すごくラディカルな衝撃を受けて、また同時にとてもシンプルな構成であるが故に瞑想に誘われる。

 水面が作る即ち完全な平面と、屹立する壁に設置された棺の垂直、この水平と垂直の関係は神秘主義を思わせる。
 とても基本的な2つのライン。
 一方は空ではありながらも水を満たしてある言わば変容した質量と、完全に空の棺。
 兎に角、この面と壁の呼応が深い思考へと誘い、たった2つしか作品の無い空間が、十分な密度を持った空間へと変わっていた。

 考えてみると、あのホワイトキューブの空間自体が、大きな1つのvoid(空虚)な空間であり、僕は作品を観てみるつもりだったが、実は作品の1部となっていたのかもしれない。

 オススメの展示。でも、8月1日まで!!
 森の学校「キョロロ」、楽しみです。



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遠藤利克 空洞説―水の座
SCAI THE BATHHOUSE(上野)
8月1日まで
『石田尚志 渦まく光』展
 4月末、久々に横浜美術館へ行ってきた。楽しみにしていた石田尚志さんの展覧会。


 去年、O JUN展を観に府中市美術館へ行った時、石田さんは公開制作をしていたのだが、その時制作していた作品もあったし、清澄のタカイシイの個展で観てすごく気に入った《燃える椅子》もあったし、今回は美術館での大きな個展だけあって、初期の代表作から新作まで、作家の仕事を一気に見られる機会だった。


 今回の記事は、展覧会の感想のようなものではなくて、展示されていた《フーガの技法》という作品を観て思ったことがあるので、メモ的な感じで記す。


 僕はこの《フーガの技法》という作品が大変気に入って、興味深く観た。かなり昔の作品。

 バッハのフーガをアニメーションで表現した作品で、フーガにあわせて映像が展開する。

 僕は、バッハが大好きだ。中でも、《無伴奏ヴァイオリンためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV.1004 〜シャコンヌ》は僕のiTunesでヘビーローテーションされている。このシャコンヌと、それからもう1曲、アントニオ・ラウロ作曲の《4つのヴェネズエラ風ワルツ》というギター曲、これも大好きなのだけれど、この2曲を聴いた時に画家としてあることを思った。つまり、「この曲を絵で表現してみたい」。

 音楽の可視可である。この衝動に駆られてから、幾度となくそれが出来ないか想像してみたが、未だに実現していない。どう考えても、無理なのだ。

 そんな自分の背景があり、今回《フーガの技法》を観て、それ(音楽の可視可)がされているので、非常に興味を持ったのである。

 そこで思ったのだ。音楽の可視化には「時間」という要素が必要であると。「概念」ではなく「要素」として必要なのだ。「時間」を持つアニメーションで、見事にそれを実現しているのがこの作品。

 そんなことに思いを馳せていたら、こんなことに考えが及んだ。時間は時間でも、絵画では「無限の時間」は表現できるのではないか、ということ。1つの曲などの「有限な時間」は表現出来ない。しかし、無限の時間は表現出来るのではないだろうか。僕は、実際にそれを成している作品がいくつか思い浮かぶ。

 時間という要素がネックになって、音楽の可視化が無理と言っていたのに、無限の時間は表現できる、などという結論に至ってしまった。しかし、よく考えると、無限の時間とはそもそも「時間」なのだろうか?


 ……こんなことを思った展覧会でした。

 で、無限のことを書いていた思ったんだけど、そこに「全てがある」と思った作品って数少なくて、そのうちの1つが先述したバッハのシャコンヌです。そこには全てがあると思えて仕方が無い。

 文学ならヘルマン・ヘッセの『春の嵐』。絵画ならゴーギャンの《我々はどこから来たのか?我々とは何か?我々はどこへ行くのか?》。映画ならテオ・アンゲロプロスの『永遠と一日』。でしょうか。




石田尚志 渦まく光

横浜美術館 (横浜)

〜5月31日まで





『塩保朋子 Cosmic Perspective』
 先日、上野へ行って少々展示を観てきたのだけれど、それが良かったので忘れないうちに。

展覧会 『塩保朋子』

 スカイ・ザ・バスハウスで塩保朋子さんの個展。これは、プレスの画像見て興味を持ったので観に行った。

 作品は白いオブジェ。抽象的で細かく繊細な作品。
塩保朋子 作品
↑こんな作品。(※画像はスカイ・ザ・バスハウスのweb上からお借りしてます。)

 小さめの作品から、数メートルの屹立する大型の作品もあった。

 蜘蛛の巣のような形のもの、波のようなもの、編み目のようなもの、渦を巻いている大きな流れのもの。それぞれ形状が違う。

 兎に角、その細かさはすごくて、それだけでも一見の価値がある。
 僕はアーティストという立場であり、最近考えていることの内で非常に重要なテーマの1つに「技術的にどうやっているのか分からない」というのがあるだけれど、まさにこれはそれです。This is it.

 緻密で繊細。とってもfragileな感じ。形になっているこの一瞬間。次の瞬間には形が崩れ、消えてしまいそう。しかし、弱くない。
 考えてみれば……、脆くて朽ちそうなものは、ある種の強い存在感を持つ。例えば、ヒビ入った骨董や剥落している絵画は、ピシッと完全体なものより存在感がある。傷つき弱っている生命を見たら、人は関心を持ち心を寄せる。表現や存在の強さとは必ずしも力ではない。

 とても大きな世界、それこそ宇宙的な広大さの縮図。あるいは、とても小さな世界、それこそ生命の中の極小の神秘の世界の拡大。それらは本来、大き過ぎて(小さ過ぎて)見ることが出来ない。作品を通してそういったことに思いを馳せたり、感じたりする。
 結局、そういう作品って、良い作品なんだよ。

 特に僕は最近『Intersteller』って映画を観たので、1番大きな作品は、宇宙を思ったなぁ。

 この展示にも言えることだけど、数年前から工芸的な作品が、日本のアート界では圧倒的に強くて前に出てきてるよね。今回もそれを強く感じました。つまり、自分への風当たりは厳しい(笑)。

 観て良かったです。オススメ。

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SCAI THE BATHHOUSE (上野)
〜2/21まで



 あと、東京芸術大学の卒展を観た。基本、もう大学の卒展を観に行ったりはしないのだけれど、今年は妻の友達が数名修了制作なので、それを観に。

展覧会 『芸大卒展2015』

 1人は体験型インスタレーション、もう1人は写真だったんだけど、良かった。2人とも僕は会ったこと無い人で、初めて作品見ました。

 インスタレーションの方は、作品の根底のテーマが僕と相通じるものがあって話が弾む。
 そして写真の方は、抜群に良くて、かなり衝撃でした。ギャラリーとか美術館の展示と同じ土俵で考えてもこれは相当良い線いっていると思って、こりゃーやられた!って感じでした。
『内藤礼 信の感情』
展覧会『内藤礼 信の感情』

 今まで、このBlogでもたびたび言及してきたように、僕の大好きなアーティストである内藤礼の個展。

 内藤礼(ないとう・れい)[1961-]は、日本のアーティスト。「地上の生と世界との連続性」をテーマに作品を発表している。

 内藤礼の作品は、本当にささやかに何かを配置することや、あるいは、本当にかすかな色をキャンバスにつけること、などによって成立しているインスタレーション。言ってみれば、作品も展示も派手ではないし、点数として数えるならば、とても少ない。もっと言えば、知らなければ、気にかけなければ、作品が展示されていることに気づかない人もいるだろう、そう言っても過言ではないと思う。
 そしてそれは、今回もそうであった。
 けれど、彼女の凄いところは、それでも展示が成立する。それどころか、非常に豊穣な世界に触れた、と感じさせてくれること。

 僕個人の意見だけれど、巷で内藤礼について語られている言葉に度々違和感を抱く。
 寄り添うとか、日常とか、そんなもんじゃないと思うんだ。
 確かに一見、やさしそうで、おだやかそうで、そう言いたくなるのも分かる。でも、秘められたメッセージは、もっと深淵で、時に恐ろしい。

 今回の展示で言うと……
 今回の展示は、庭園美術館の館内のインテリアをそのまま活かし、数えられるほど少ない数カ所に、作品である木製の小さな人形が置かれている。という物だった。人によっては「これが作品なの?」と思うだろう。
 そして、その小さな人形の多くは、鏡のすぐ前に置かれていた。

 この人形の置かれ方に特徴が有る。鏡のすぐそばに、1人で、鏡の方を向いて置かれているのだ。
 鏡には、人形の表情が映っている。
 しかし、あまりに鏡のそばに置かれているものだから、僕たちは鏡と人形の間に頭を覗き入れることが出来ない為、その人形の顔を“直接”見ることは出来ない。目を合わせたいのならば、鏡に映った顔と目を合わせることしかできないのだ。
 そして、人形は鏡の反射を通して世界を見て、認識する。決して直接世界を見ることはない。鏡が映し出すものを見続けている。
 きっと、本当はこちらを向きたいのだと思う。しかし、不安なのだ。信じたいけど、まだそうはできない。様子を伺っている。

展覧会『内藤礼 信の感情』

 最後の展示室に行くと、周囲の壁には本当にかすかに色がついたペインティングが掛けてあり、部屋の端の方に1人だけ例の人形があった。
 しかし、この人形。鏡に背を向けて、こちらを向いているのだ!最後の最後になって、漸くこちらを見てくれた。直接世界を見る勇気を出してくれたのだ。
 ただし、この人形には1つ違いがあった。毛糸の帽子を被っていたのだ。そう、柔らかく温かく包んでくれるもの、つまり、守ってくれるものを身にまとうことによって、やっと直接世界を見つめる勇気が出たのだろう。
 展覧会タイトルの『信の感情』の「信」は、「信じている」ということよりも「信じても良いですか?」という問いかけの意味合いに感じられた。

 僕には、こういった一連の展示が内包し表すものが、社会や世界を映していると思えて仕方ないんだ。
 情報はパソコンのモニターにディジタルとして溢れ、遠い場所の出来事をどこにいても知ることができ、一瞬でメールを送り会話が成立し、チャットなどでは知らない人と意見交換も出来る。
 ITの進歩は豊穣な実りを手にさせてくれるし、娯楽は増えたが、それを行う自分は部屋に1人だ。
 何かに映し出されていることや、反射を通してではなく、直接世界を見る機会はどれほどだろう?文字として目に飛び込んできたスリルに興味を持っても、それに何かしらの態度を表明しようとしたことはあるだろうか?

 ゲーテは言った。「真実とは、本当は恐ろしい顔をしていて、我々はそれを直視できない。」
 今回の人形たちにとって、世界はそういうものなのかもしれない。

 だから、僕にとって内藤礼は、極めて同時代性の強い作家であり、社会的な作品であるとも思う。
 良く言われるように、気づきや発見をたしかにくれる。しかし、それはすぐ隣のやさしさのようなものとは限らない。
 小さな人形が鏡を通して、鑑賞者である僕たちや世界を認識していたように、我々は内藤礼の作品を鏡として、世界を認識するのだ。



--以前の内藤礼に関する記事--


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内藤礼 信の感情
東京都庭園美術館(目黒区)
11/22〜12/25 ※会期終了

『ジュリアン・オピー Street Portraits』
展覧会『ジュリアン・オピー』

 上野、スカイ・ザ・バスハウスで開催されていた、ジュリアン・オピーの個展。

 ジュリアン・オピー(Julian Opie)[1958-]はイギリスの現代美術家。極端にデフォルメされた超シンプルな線と点、マットな色彩で描いた人物像が有名。言わずと知れた、世界のトップアーティストの1人。


 今回の個展は、そんなジュリアン・オピーの新作が観られる機会だから、とても興味を持っていた。
 秋葉原でアーツ千代田3331に行って、その後に立ち寄った。

 オピーの作品は今までも何度も観ているし、さして新鮮さを求めて観に行ったわけではないのだけれど、今回は今まででも一番というくらいにグッときた。

 僕もこれまで古今東西、それなりに多くの作品を観てきたと思っている。自分の歳に対してならば、周りのアーティストよりも相当多く観ているのではないかと思っている。そして僕は作家なので、制作者としての思考も混ざりながら、沢山の作品を観ながらグルグルと頭の中で色んなことを逡巡してきた。それが、ここに来てオピーに何かを感じた。
 正直これは意外なことで、まぁ、凄く分かり易い作品だし、実作もイメージも沢山目にしてきたので分かっていると思っていたのだけれど、今の僕はかつてとは違い、自分の中で何かが育っていたのだろうか。「これが世界トップを行く人か!!」と思わざるを得なかったのだ。

 まず、強烈なアイコン。誰がどう見ても「オピーだよね」と分かるということ。
 考えてみると、世界の巨匠の作品は皆そういった名刺要らずの超絶個性がある。特にこれは平面作品に於いて強く言える気がする。
 重要なのは、この強烈な個性を「最初に提示する」ということだと思う。
 そして、同じくらい重要なのは、提示した強烈な個性を「着こなす」ということだと思う。服に着られてはダメだし、酒に飲まれてもダメだということ。

 次に、作品が素敵だということ。

 そして、見た瞬間に、巨大な世界のアートマーケットにこの人は確実にリンクしている、という確信があった。

 まぁ、そんな風に、色んな面で勉強になりました。楽しかった。


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ジュリアン・オピー Street Portraits
SCAI THE BATHHOUSE (台東区)
11/14〜12/20 ※会期終了


今月の気になる展覧会
 行きたい展覧会、気になっている展覧会を、こうして定期的にメモとして公開しようと思う。

・『O JUN 展』@府中市美術館(〜3/2)
・『小山登美夫ギャラリーグループ展』@TOLOT/heuristic SHINONOME(〜3/1)
・『田中一村展』@永井画廊(〜1/30)
・『ブリティッシュ・カウンシル・コレクション』@東京ステーションギャラリー(〜3/9)
・『ラファエル前派展』@森アーツセンターギャラリー(1/25〜4/6)
・『ミヒャエル・ボレマンス:アドバンテージ』@原美術館(〜3/30)
・『ミヒャエル・ボレマンス Girl with Hands』@ギャラリー小柳(〜3/1)
・『ヴォルフガング・ティルマンス』@WAKO WORKS OF ART(〜3/22)
・『シャヴァンヌ展』@Bunkamura ザ・ミュージアム(~3/9)
・『衣川明子』@アラタニウラノ(1/25〜2/22)

 出来れば、全部行きたいけど、とりあえず現代アート系を優先かな。

 結局ね、コンテンポラリー。現代アートだよ。
 今、アーティストとして生きる以上、制作、発表を続けたいと思うなら、過去の美術史を知った上で(ここ重要!)、現代アートを観て、そして、どうしたってその世界の中心へ向かって、揉まれ、サヴァイヴするしかない。
 僕が、学生時代から、そして卒業してから、10年強アートのこと考え続けて痛感している事実です。

 過去に、自分の胸がときめくイデオロギーやナントカ主義とか潮流があったとして、僕だってあるし、それはそれでいいんだけど、アーティストとしてそこに生きることは出来ない。それは終わったことだから。学者や研究者なら話は違うんだけど、アーティストならば作品を生み出すのは「今」なのだから。過去に生きるのでも、過去を繙くのでもないわけで。

 作品を周知させたいし、残したい。
 知れば知るほど、恐ろしい世界なんだけど、ワクワクしてる。


追悼《アンナの光》
 まずは、こちらをご覧下さい。



 僕は、大変ショックを受けています。涙がちょっと出た。

 僕がどれだけ川村記念美術館(現:DIC川村記念美術館)を好きだったか。
 特に、マーク・ロスコの作品が見られる「ロスコ・ルーム」と、今回のバーネット・ニューマンの傑作《アンナの光》を鑑賞する為だけに作られた「ニューマン・ルーム」、この2つの部屋の魅力は僕に取って特別だった。
 それだけに、とても残念です。

 正直、川村記念美術館は、その魅力の半分を喪失したでしょう。

 文献や画像で知ったり見たりするのではなく、あの場で実際に「体験」すること。ロスコやニューマンの作品でそれが出来る、世界的に見ても稀な場所だった。

 ピカソやシャガール売るのとはわけが違うんだよ。
 ロスコとニューマンは体験しないとダメなんだ。

 自分に関していえば、今まで何度か行っていて、本当に良かった。
 アートに興味があったり、ましてやアートの世界で生きていて、日本、特に関東に住んでいて、もしニューマン・ルームに行ったことがない人がいるのなら、大いに反省するべきでしょう。
 そして、そこから学んで、一刻も早く魅力の半減してしまった川村記念美術館へ行き、ロスコ・ルームを体験するべきでしょう。いつ、ロスコ作品も同じ道を辿るとも分からないから…。

 どうも調べると、3代目の川村社長がロスコやニューマンをコレクションしたらしい。しかし、氏は現在は経営のトップから退いているようだ。それが原因してか、会社は今回の海外企業からの購入の申し出に乗っかってしまったのだろう。
 103億円か。お金じゃないよな。本当に貴重な空間だったのに。103億なんて安すぎるだろ。

 あの空間を体験できたことを、アーティストとしての糧とし、頑張っていきます。

ニューマン・ルーム
 川村記念美術館にあったニューマン・ルーム


 最後に、思い出を振り返る意味と、《アンナの光》への感謝を込めて、過去のニューマンと川村記念美術館に関する拙blogを、列挙しておきます。どれだけ魅力的かが、読者に伝われば幸いです…。

 ・『マティスとボナール』展 (2008.04.14)
 ・『マーク・ロスコ』展 (2009.03.22)



『アンドレアス・グルスキー展』
 結構気になっていて、先日ようやく行ってきた展覧会。

 国立新美術館での『アンドレアス・グルスキー展』。

展覧会『アンドレアス・グルスキー』

 僕は知らない作家だったので、どんな作品か知らなかった。でも、展覧会情報誌などに掲載されている、小さな画像を見て、「これは見なければならない」と瞬間的に思わされたのだ。

 アンドレアス・グルスキー(Andreas Gursky)[1955-]は、ドイツの写真家。旧東ドイツで生まれ、西ドイツで育った。
 写真作品としてオークション最高額(2011年11月のクリスティーズにて、430万ドル)を記録したアーティストでもある。

 とまぁ、そんな知識も事前情報もないまま、兎に角観に行って、僕は非常に感動したね。
 作品はどれも巨大にプリントされて展示してあった。
 そのどれもが、確かに写真なのだけれど、見ているとどうしても違和感を感じる。それがとても面白い。

 つまりは、デジタルで加工してあるわけだけれど、当然修正箇所を目で確認などできないわけで、一見それは何の変哲もない写真なわけです。

 ここでちょっと重要な話。
 写真とは「写真」と書く。これは「真実を写す」という意味だと思いがちだ(実際僕も以前は当然そうだと思っていた)。しかし、それは間違いです。
 「写真」は中国語で肖像画のこと。決して、真実を写す、という意味ではないのだ。
 元々、写真の歴史を辿れば、肖像画について言及せざるを得ない。この辺のことは、以前「写真について[第1回]」の記事で書いたので目を通して下さい。
 大切なのは、写真にはきっと“真実がそのまま写っているのだろう”という暗黙のしかし確固とした共通認識がある、ということである。なぜなら、この暗黙のルールが共有されてなければ、人間の社会生活に大きな支障をきたすから。身分証も、はたまたアリバイや証拠写真も、なにも効力を持たなくなってしまう。だから、写真は“真実を写しているのだろう”ということで皆が納得していないと困るのだ。
 因みに、写真は英語では photogragh であるが、photo は「光」、gragh は「刻み込まれたもの」、つまり「刻印された光」という意味である。これは、フィルムに関してはその通りであろうが、現在は周知のようにデジカメの時代で、デジカメにおいては刻み込まれているのは光ではなく、0と1という記号であろう。

 さて、グルスキーの作品は、写真作品なわけだが、明らかな違和感を感じる。それは、刻み込まれた光を見ているのではなく、コントロールされた0と1を見ているからだろう。
 これがとても面白く、刺激的だった。
 一見なんの変哲もない。しかし、本能的に違和感を感じる。この体験が面白い。
 また、多くの作品は反復性が強い。それが数メートルの巨大なプリントということによってより効果的になっている気がして、これは実作の前に立たなければ分からない質感であり、今回体験できて本当に良かったと思えることである。

 単純にセンス良いし、写真の意味について考えさせられるし、良い展覧会でした。
 1枚1枚の写真も、深いメッセージを持っているように思え、鋭い表現。
 16日までだし、台風も来ているけど、必見だと思います。



[メモ]
国立新美術館 (六本木)
9月16日まで


盛夏。最近良かったものなど
 とっくに8月に入り暑い日が続いてますね。

 先日の「子ども寺子屋」も無事終わりました。
 いやー、子どもの講座は大変だね!
 想像以上の出来の部分と、想定外の部分と、色々と予想と違って。
 まぁ、でも兎に角良い負荷で、それを超えたという経験が得られたので良かったです。


 観に行ったものとしては、日本橋高島屋の長沢さんの個展がよかったな〜。
展覧会『長沢明展』2013 

 2回観に行きました。
 今までと違う作品展開もあって、良い刺激になった。


 あと、東雲に出来たアートスポット。ここがとても良かった!
TOLOT 入り口 

 巨大な倉庫の2階がスペースで、一般的な日本のギャラリーのサイズくらいのホワイトキューブが8つ、キューブ外の廊下(?)部分も広くて作品が展示してある。
 色んなギャラリーが入ってて、僕が行った時は WAKO WORKS OF ART も入っており、しかも3つのキューブがワコウだった。

 広くて迫力ある空間で、とても良かったです。
 遠いのが難点ですかね、でも良いとこ!
 まあ、銀座も近いし、是非行ってみるべき場所だと思います。



『フランシス・ベーコン展』
 最近行った展覧会のうちから1つ。

 記事にしていないだけで、相変わらず割と多くの展覧会に行っています。
 そんな中、まだ会期が終了していない展覧会を。

 東京国立近代美術館で開催中の『フランシス・ベーコン展』。

展覧会 『フランシス・ベーコン』

 言わずと知れた20世紀の巨匠の1人。
 個人的には、とても興味のあるアーティストの1人、それがこのフランシス・ベーコン(Francis Bacon)である。

 日本でそんなに認知度が高くないことと、印象派や写実絵画のように誰が観ても「まぁキレイ」ってタイプの絵ではないので興行的に成功するのかという問題も有ってか、国内での大規模な展覧会は久しぶりである。

 展覧会自体は観易かったし、迫力がある大作もたくさん来ていて、とても良いものだと思う。

 ベーコンの作品については、「暴力的」という言葉がキーワードとされているが、恐らく多くの人が誤解しているように、これはベーコンの絵が暴力的という意味ではない。
 これは名詞ではなく副詞(「暴力的な」)である。人を現実に向き合わせたりという絵画の超越的な力、という意味なのだ。

 会場内で、ベーコンのドキュメンタリー映像(恐らく海外の番組かな)が、数分だけどループで流れていて、そこでもベーコン自身がこう言っていた。
 「暴力性が溢れているのは現実世界であって、画家の作品の中ではない」

 さて、ベーコンの作品は良くわからない。実際、僕も初めてまとまった数のベーコンの作品を観たけれど、よくわからない。
 しかし、個人的にベーコンの作品の魅力は何かというと、この「分からない」ということだと思う。

 本当に良い作品は、鑑賞者が一瞥をくれただけで、1から10まで何もかもが合点がいき、良く理解できてスッキリ気持ちいい、そんなものではないと思っている。
 本当に良い作品というのは、そう簡単には全貌を理解させない。
 格好良く言えば「未だ名付け得ぬもの」。簡単に言えば「得体の知れない何か」。そんなものが潜んでいるのであって、それが大事なのである。

 実は、今回のフランシス・ベーコン展、2回ほど行きました。
 僕がリピートする展覧会って結構レア。興味が有ったってことです。



[メモ]
東京国立近代美術館 (千代田区)
5月26日まで
巡回:→豊田市美術館