去年、O JUN展を観に府中市美術館へ行った時、石田さんは公開制作をしていたのだが、その時制作していた作品もあったし、清澄のタカイシイの個展で観てすごく気に入った《燃える椅子》もあったし、今回は美術館での大きな個展だけあって、初期の代表作から新作まで、作家の仕事を一気に見られる機会だった。
今回の記事は、展覧会の感想のようなものではなくて、展示されていた《フーガの技法》という作品を観て思ったことがあるので、メモ的な感じで記す。
僕はこの《フーガの技法》という作品が大変気に入って、興味深く観た。かなり昔の作品。
バッハのフーガをアニメーションで表現した作品で、フーガにあわせて映像が展開する。
僕は、バッハが大好きだ。中でも、《無伴奏ヴァイオリンためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV.1004 〜シャコンヌ》は僕のiTunesでヘビーローテーションされている。このシャコンヌと、それからもう1曲、アントニオ・ラウロ作曲の《4つのヴェネズエラ風ワルツ》というギター曲、これも大好きなのだけれど、この2曲を聴いた時に画家としてあることを思った。つまり、「この曲を絵で表現してみたい」。
音楽の可視可である。この衝動に駆られてから、幾度となくそれが出来ないか想像してみたが、未だに実現していない。どう考えても、無理なのだ。
そんな自分の背景があり、今回《フーガの技法》を観て、それ(音楽の可視可)がされているので、非常に興味を持ったのである。
そこで思ったのだ。音楽の可視化には「時間」という要素が必要であると。「概念」ではなく「要素」として必要なのだ。「時間」を持つアニメーションで、見事にそれを実現しているのがこの作品。
そんなことに思いを馳せていたら、こんなことに考えが及んだ。時間は時間でも、絵画では「無限の時間」は表現できるのではないか、ということ。1つの曲などの「有限な時間」は表現出来ない。しかし、無限の時間は表現出来るのではないだろうか。僕は、実際にそれを成している作品がいくつか思い浮かぶ。
時間という要素がネックになって、音楽の可視化が無理と言っていたのに、無限の時間は表現できる、などという結論に至ってしまった。しかし、よく考えると、無限の時間とはそもそも「時間」なのだろうか?
……こんなことを思った展覧会でした。
で、無限のことを書いていた思ったんだけど、そこに「全てがある」と思った作品って数少なくて、そのうちの1つが先述したバッハのシャコンヌです。そこには全てがあると思えて仕方が無い。
文学ならヘルマン・ヘッセの『春の嵐』。絵画ならゴーギャンの《我々はどこから来たのか?我々とは何か?我々はどこへ行くのか?》。映画ならテオ・アンゲロプロスの『永遠と一日』。でしょうか。
@横浜美術館 (横浜)
〜5月31日まで