アーティスト 加藤雄太 のブログ
展覧会のレヴュー、本の感想、その他制作の日々の模様など。
ホームページは yutakato.com 作品掲載してます。

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●2月の掲示板として●
ようこそおいでくださいました。UTです。
やっとトップ画像を変更です。

今月も、ぼちぼちと制作をして行こうと思います。
そして、ぼちぼちと相変わらず、展覧会のこととか、本のこととか、はたまた映画のことだったりとか、どうでもいいような自分の話とか、妄想とか叫びとか、その他もろもろ綴っていこうと思います。目を通してもらえるとUTさん喜びます。

何かを感じてしまったら、どうぞコメントを残していってください。
それでは、今月もよろしくお願いします。

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[画像]
《記憶としての風景》
2005/11/25
岩絵具、アクリル絵具、和紙
45.5×53.0cm
個人蔵
《A View Through Memories》
Powdered mineral pigments and acrylic on hemp paper
Privete collection
by UT
※画像の無断転載・転用は禁止です





UTによる「シュルレアリスム」講座
以前の印象派講座につづいて第2弾。

シュルレアリスム。
比較的よく耳にする言葉では?
絵とか何かをみて、「シュール」だね、とか。これって、シュルレアリスムからきてんだよね?(書き手が質問しちゃっている)

例によって、なるだけ分かりやすく、でも手を抜かずに説明します。興味がある方は、是非読んでください。

シュルレアリスムにしてもキュビスムにしても、起源をフランス語に持っているものは、「スム」です。「ズム」じゃないですよ。

まず最初に言っておきたいのは、シュルレアリスム(Surréalisme)は日本語で「超現実主義」と訳されますが、この響きを聞くと、いかにも現実を超えたところにシュルレアリスムがあるように思うかもしれないけれど、これは大きな誤解であるということ。
この「超現実主義」の"超"は「チョーカワイイ」の"超"です。つまり、「超現実主義」とは、とっても現実な主義ということになります。
シュルレアリスムは現実生活のからの逃避ではなく、現実世界の至る所に存在し、超現実の世界は現実世界の延長線上にあるのです。

何から話せばいいか迷うけれど、まずシュルレアリスムと関係が深いのは、第一次世界大戦(1914-18)。
この頃は、科学の発達で、あらゆる便利な発明が溢れてきている頃。大量生産によって、ものは安価に提供されるようになったりしました。
が、戦争の勃発によって、価値観が大きく揺らぎます。人間の中の狂気に気づき、不審を抱いた、というのは、前に「写真について」のエントリーで書いた通り。
戦争という肩書きのもとに、大量殺戮が正義になり得るという現実がありました(今もある)。
そんななか、人間の理性に対する大いなる不信が起こり、ダダイスムなどが起こるわけだけれど、その先にアンドレ・ブルトンという人の『シュルレアリスム宣言』が生まれたのです。ブルトンはシュルレアリスムの重要人物。この宣言の中に書いてある文章を引用すると
「理性によるいかなる制約も受けず、審美的な、あるいは論理的な心づかいをまったく離れて行われる思考の口述である」
と書いてあります。

とにかく、シュルレアリスムは人間の理性に対して公然と不信を示し、理性や論理を離れての表現をしようとしたものなのです。
理性を無条件に受け入れないということにおいて、シュルレアリスムと象徴主義は精神的な兄弟とも言われています。

どうでしょう。シュルレアリスムが浮世離れした彼方のものではないということが、分かってきたでしょうか?
では、シュルレアリスムは、どうやって現実の中に内包された「超現実」を表現しようとしたのか?そもそも、どうやって「超現実」を発見したのか?

まず、シュルレアリスムを美術のみの現象だと思っている人も多いかもしれないけれど、これは、詩や文学、もちろん絵画など多ジャンルに及んでいるものなのです。

書いてきたように、シュルレアリスムは、既成の事実や物、何かしらのイメージから出発して表現していくのではない。ので、新しく発見することをしなければなりません。
そのための方法としていくつかだけ紹介します。
コラージュ、フロッタージュ、デペイズマン、デカルコマニー、オートマティスム、などなど。
このなかで、特に重要な2つ、デペイズマンとオートマティスムについてちょっとだけ説明。

「デペイズマン」は、普通はまったく組み合わせたり繋がったりしないような物事を組み合わせて、理性のもとでは想像もつかなかったような驚きを、「超現実」を手に入れる方法です。
このデペイズマンを紹介するときにどうしても取り上げなければならないのが、ロートレアモンの『マルドロールの唄』の中の一節。良く引き合いに出されるので、知っている人も多いかもしれないですが、
「解剖台の上でミシンとコウモリ傘が出会ったように美しい」
というもの。これは、シュルレアリスムの性質を良く表しているものとして有名。
「解剖台」も「ミシン」も「コウモリ傘」も、日常生活では全く結びつかないものですが、それを合えて組み合わせています。

デペイズマンで、僕がすぐに思いつくのは、絵画だとこんな感じ→→(画像はマグリットの絵)


「オートマティスム」は、絵を書くにしても小説を書くにしても、考えるよりも早く、理性が追いつくより早く手を動かす、というもの。「自動筆記」ということ。
例えば、文章の場合なら、「私」というものがいて、通常通り文章を書くのでは「私」の思考が追いついてしまうから、動詞の活用をやめ「動詞の不定形」のみを使うようにする。そして、より早く書くために、今度は「前置詞と名詞」のみを使って書くようにする。事物と事物の関係のみ。とにかく、ダダダーっと書いていくのです。こうすることによって、本来の自分から離れて、無意識の領域を獲得しようとしたのがオートマティスムです。これが「現実」から「超現実」へと至るということになり、この「現実」「超現実」の間には、境がありません。
自分が自分のことを考えているのではない。誰かが自分のことを考えている。という状態ですね。

とにかく、シュルレアリスムについて書き始めるときりがないんですが、つまりシュルレアリスムとは、現実の中にその延長線上の超現実へと至る暗号を発見し、真実へと迫ろうとした、ということです。
本来の自分を客観的に見つめているので、客観主義なのです。

色々となんだかわけの分からない絵がいっぱいあるなぁ、とか思ったりするかもしれないけれど、実は画家は馬鹿じゃない。何かしら提示しようとしているものがあるのです。
むしろ、社会を鋭く見つめ、メスを入れようとしているのは、こういった芸術家なのかもしれません。




『サルバドール・ダリ』
サルバドール・ダリ 世界が愛した芸術家ダリの超現実的な人生
(たぶんアメリカ合衆国 ????年 75分)
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TSUTAYAでまたしても衝動借り(笑)。アート系が、じみーにいいのあります。

サルバドール・ダリ(Salvador Dali)[1904-1989]は、言わずと知れた有名な画家。スペインのシュルレアリスムの画家ですね。20世紀を代表する1人でしょう。

ついこないだの「新日曜美術館」で、ダリについてやってました。

10歳上の人妻のガラを、友人から奪い結婚してしまいました。

ダリは「天才を演じた」ということで天才と良く言われています。僕は演じるのではなく…、
また、テレビなどメディアを使って派手にパフォーマンスし、アピールしまくったという点でも突出しています。
金の亡者になって、キャンバスにドルマークを何個も書いている姿を撮らせたり。



ダリといえば、こういった感じの絵を思い浮かべるのでは?




この映画は、そんなダリのドキュメンタリーでした。

かなり豊富に、実際のダリが出てきて喋ります。肉声を伝える貴重な資料では?

ダリの生涯を紹介しながら、その芸術に生きた人生を描いた内容。




なかには、ダリが起こした事件や事故の時の、実際のニュースまで収録されていて面白かった。


ただ、芸術やシュルレアリスムについて迫るというよりは、ダリの生涯や周りの人たちの証言をまとめた、という感じ。

でも、楽しめる内容ではあると思う。
なかなかこんなにダリを見れない気がする。

ちなみに、今年の9月から東京でダリ展が始まるようです。
で、来年、関西から北海道まで巡回するようです。
行きましょう。


と、いうことで、ちょうどいい機会なので、次のエントリーで「シュルレアリスム」について、僕なりに解説します。読んでみてね。





どうにか
今年最初の区切り。


ちょっと、
……疲れちゃった。




如是我聞
無冠の天才でいいじゃないか。




『岡村桂三郎展』
岡村桂三郎[1958-]は無所属の日本画家。
これは、以前に岡村桂三郎の特講があったとき本人が話していたと記憶していることですが、たしか今は埼玉に住んでいて、週に1回東北芸術工科大学へはるばる車で出勤、という生活だった気が(氏は芸工大の助教授、たしか)。
それと、岩絵具とかガンガン自分で岩砕いて作って、使っていたような記憶があります。

何と言うか、迫力のある作品を制作している方です。
屏風状の巨大な作品で、ベースは黒。そこに無彩色(しかも暗い色)を使って描いている。というか、刻んでいる感じ。というのも、マチエール(絵肌)はとてもゴツゴツしていて、ガリガリ削った痕もはっきりと確認できます。

どこか、民族的、土俗的、宗教的な匂いをかもし出す、そんな作品が多いです。というか、それしか観たことがない。
そして、この宗教的という言葉は、この場合は、他者には共有できない個人的な宗教を指します。

今回の個展は、画廊いっぱいに屏風が置かれ、龍のようなものが描いてありました。
やはり、独特の空間がそこにはあります。
迫力あるよ。


[メモ]
岡村桂三郎展
@コバヤシ画廊 (銀座)
3月4日まで





『卒業・修了制作展』などなど
イナバウアー!!


徹夜作業に続いて、もろもろの美大の卒展へ行ってきました。なぜ行ったのか、自分でも良くわかりませんが、思い立ったら即行動君を、なんちゃってながらも演じてみたかったのだと思います。

というか、偵察です。

というか、絵具が何色か使いたいやつなくなっちゃったんだけどね。妥協してもよかったのだけれど、なんかそれだと負けちゃう気がして。

あ、一応。美大は卒論などのにあたるものとして、卒業制作というものがあります。

エントリーを分けるまでもないので、何に行ったかぐらいの感じでさらっといきます。


まず、
第54回 東京芸術大学卒業・修了作品展
芸大美術館東京都美術館にて。



次。
東京五美術大学連合卒業制作展
東京都美術館にて。

これは、多摩美、武蔵美、造形大、女子美、日大芸術学部、の合同卒展。
ご想像通り、すごい量です。

で、ここですごいことが。

邂逅。

予備校時代の先輩に、予備校以来初めて会った!会場で偶然出会いました。
この先輩は、たぶん僕の2つくらい年上かな。いっしょの年に大学に合格して、彼女は仙台の大学へ行きました。
仙台からたまたま今日観にきていたらしいです。
12月の個展に来るよう、強く説得しておきました(笑)。
いやぁ、しかしビックリだ。

その後、京橋、銀座へ。
3つくらい画廊を回る。



次。
『多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業制作展』
東京銀座画廊にて。



次。
あ、これはエントリー化します。
『岡村桂三郎展』

その後、渋谷で絵具購入。
町田で所用。





『ゾラの生涯』
ゾラの生涯
(アメリカ合衆国 1937年 116分)
監督:ウィリアム・ディターレ
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前から観てみようとは思っていたんだけど、なかなか借りなかったビデオ。

調べてみたら、これ1937年のアカデミー賞で、作品賞・主演男優賞・助演男優賞・監督賞・脚色賞・原案賞・作曲賞・室内装置賞・録音賞・助演監督賞にノミネート。で、作品賞・助演男優賞・脚色賞を受賞していた。

ゾラって言うのは、当然エミール・ゾラのことです。彼については、以前『制作』の記事でちょっと書きました。
この映画は、ゾラがまだ画家ポール・セザンヌと屋根裏に同居していた頃から始まって、その死までを描いています。が、ゾラの生涯というよりは、断然「ドレフュス事件」にスポットを当てた構成。

ドレフュス事件とは、1894年にフランスで起きた事件で、陸軍内部であるメモが見つかりスパイがいることが判明。ユダヤ系の砲兵大尉アルフレッド・ドレフュスが犯人にされ、全くの無実にも関わらず有罪判決を受け終身刑となり、南米のフランス領ギアナ沖のデビルズ島(悪魔島)に終身城塞禁錮になった事件。
その後、情報部長のピカール中佐が真犯人を突き止め、上部に報告するが、軍は、一度下した判決を変えるのは、軍の名誉と権威の失墜に関わる問題なので隠蔽。その真犯人を無罪放免にした。

ドレフュス夫人は、その頃作家として大成功していたゾラに助けを求める。前にも書いたように自然主義の立場から、広く色んな人々の生活に目を向け、民衆を見つめて社会の真実を書こうとしていたからである。

その後、裁判が行われたが、軍の圧倒的有利に進む裁判では、ドレフュスの有罪は覆らなかった。
それどころか、ゾラも有罪になる。

ゾラはイギリスへ亡命し、イギリスからガンガン真実を追究する記事などを発表。
最終的に、ドレフュスは無罪となりました。1906年のことです。


という、事件にスポットを当てた映画。
面白かったよ。
正直、ゾラかぁ、借りてみよー、くらいの勢いだったんだけど、すごい良かった。

ゾラが、何を思って執筆に励んでいたのか、ということが分かると思います。
徹底して社会の現実を見つめる姿勢。なんとなく、なぜ『制作』を書いたのかも分かった。なぜあの作品の中で、あれだけ激しく吠えていたのか。自分が確信する1人の天才がいて、それが黙殺され評価されない現実に、どうしても訴えざるを得なかったのでしょう。
たぶん、この映画を見ると、ゾラの作品を読みたくなると思う。そんな1本でした。

ゾラが裁判で最後に喋るのですが、この演説は泣けますっ。

ただ、個人的になぜこんなにグッときたかって考えてみると、この映画の性質でしょうか。
UTさんは、突然すごい憤りにかられるポイントみたいなのがあって、そういうのを目にすると、たとえテレビの中で展開されていても、滅茶苦茶泣きそうになります。ものすごい感情的になる。具体的に言うと、「理不尽」や「権力による真実の隠蔽」、など。
そんな部分が刺激されて、この映画を普通の人よりも入り込んで観てしまったのかもしれません。

真実を光のもとに晒すことの困難。

それにしても、これが亜米利加映画というのが、個人的に気になる。舞台も登場人物もフランスのはずだけど、ガンガン英語です。English。
1937年の映画か…。暗黒の20世紀だね……。あと2年で世界大戦だ。時代も何かしらそういう空気が漂っていたに違いない。
この時期にこの映画を公開したのか。The 深読み。





描き描きぬりぬり
しています。

制作制作。
とりあえず、例の一連のシリーズに関しては、『色・完成度・強さ』をだいぶ意識して描くようになったここ最近。追及中です。。
かと言って、おとなしくて丁寧で上品、という意味ではない。


さて、我らが岩絵具君。

瓶に入って売っているものを、こうやって袋に量って売ってもらいます。




すごくどうでもいいですが、こないだ府中市美術館に行った時、美術館の所在地である府中の森にて、ロケが行われていたよ、という写真。

CM?
ドラマ?

謎。





重力について
カップラーメンを作っていたのを忘れ、しばらくしてから気づいたUTです。

財布に35円しかないことに気づき、ショックなUTです。

最近、どうも本が読めないUTです。

起きると、寝ながら号泣していた記憶のあるUTです。今に始まったことではないけれど。



うん。だから何か。
うん。難しい質問だね。