アーティスト 加藤雄太 のブログ
展覧会のレヴュー、本の感想、その他制作の日々の模様など。
ホームページは yutakato.com 作品掲載してます。

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●5月の掲示板として●
花は咲くし、気温は上がる、
吹く風はどこか柔らかく、やさしく、
射す陽はどこか匂やかに…。

頑張り時、だよ。



本についてはこの辺、展覧会等はこの辺、その他色々です。
今月も、どうぞよろしく。


[画像]
《記憶としての風景》
2005/09/10
岩絵具、アクリル絵具、和紙
91.0×116.7cm
《A View Through Memories》
Powdered mineral pigments and acrylic on hemp paper
by UT
※画像の無断転載・転用は禁止です

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☆★告知★☆

韓国の釜山市立美術館にて行われる、日本と韓国の交流展に参加することになりました。
小品2点が展示されています。
期間は、5月16日から21日。
DMはこれ→です。





魂の剽窃
ついに、大きく報道され始めましたね。

画家・和田義彦氏の盗作疑惑。

是非、リンク飛んでください。
分かりやすいのは、
サンスポ
毎日新聞

↑どうですか?

僕は前からこのこと知ってたんですが、……まぁ、ついに、みたいな。

本人、必死に否定してますが……
何言っても無駄。
弁解の余地無し。
てか、盗作、っていうよりも、もはや模写(笑)。複写。

「作品のオリジナリティが…」とか「ピカソが云々…」とか言ってますが、焼け石に水。

盗作されちゃった、アルベルト・スギさん(イタリア人)が怒るのも当然。

何が汚いって、盗作の対象が海外の人で日本じゃ無名画家であるということ。
これが著名な人や巨匠なら、オマージュとか敬意を表して、とかいろいろ言っていただろうに、無名だしバレないでしょ根性が汚い。
最悪。

ちなみに、アルベルト・スギさんのインタビュー動画
すごいですよ。そっくり、というかそのまんまの作品がじゃんじゃん見れます。


検索すればいくらでも出てくると思うし、呆れすぎて書きたい事を書く気すらげんなりなんで、このへんで。

ただ…1つだけ言えば……
「作品を創る」って、けっこう大変なんなんだよ。
ということ。


もう、画家として終わりでしょう。




『メルヒェン』
メルヒェン
著:ヘルマン・ヘッセ 訳:高橋健二 (新潮文庫) 380円
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以前のヘッセ記事は…
・『郷愁(ペーター・カーメンチント)
・『クヌルプ
・『荒野のおおかみ
・『シッダールタ
・『ヘルマン・ヘッセ展
を。

全9編からなる、ヘッセの創作童話集。
楽しいメルヒェン、というのではなく、大人のためのメルヒェンとなっている。

他の長編にも顕著であるが、ヘッセ作品に共通する3要素、すなわち「生」「死」「愛」が、短い短篇の連続ながらもしっかりと言及されている感じ。

なんともヘッセらしい作品たち。

無垢なようであって、毒があるようであって、原点回帰的な感じの時もあって、厳しい感じもあって、空想的であって。

たしかに時折ファンタジックで空想物語なんだけど、ちょっと緊張して読むというか、なんというか。

最初の1冊、という感じではないけれど、他の長編をある程度読んだら、手に取ってみるといいんじゃないかな。





『ベルナール・ビュッフェ展』
ベルナール・ビュッフェ(Bernard Buffet)[1928-1999]は、フランスの画家。
僕は彼の作品が大好きです。

たしか去年、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で大規模な回顧展が催されました。

風景や静物画が多いんだけれど、輪郭線ははっきりと大胆な黒い線がズバッと描かれ、色彩は暗い色が多く、黒い輪郭線によって象られたフォルムは単純化されている、そんな絵を描いた人。
これが、僕にはとても魅力的。

モチーフは食器だったり、街角だったり、船だったり、家だったりするのだけれど、非常に人の気配というものを感じない。無機的、というのだろうか。

そして、絵に漂う静寂は、おもわず観ているものも黙らせてしまう力がある。心地よい無音の音楽を聴いているようだ。
「枯れた色彩」による、けれど力のある色彩。

「場」の雰囲気の抽出。独自の視線による抽出。
一見、荒々しいようでいて、繊細な表現がある。



[メモ]
ビュッフェ展
ギャラリーためなが (銀座)
6月10日まで

巡回:ギャラリーためなが (大阪) 6月24から7月17日





『エルンスト・バルラッハ』展
エルンスト・バルラッハ(Ernst Barlach)[1870-1938]は、ドイツの彫刻家、芸術家、劇作家。
モチーフは主に人間。人間をテーマに、その時々で人間を観察し、芸術表現した人。

日本での初の回顧展とのことで、たぶん初めて作品を観た。

うん。良い。
特に彫刻。
対象となっているのは、庶民。物乞いだったり、生活に疲れた人だったり、そういった下層階級の人が表現されている。
フォルムはかなりのデフォルメで、まるっこくて大雑把で細かくない。
でも、作品は、社会の底辺の人々が生きているのである。
空気感がどうこう、というのではなく、鑑賞者はその人物の情景に入り、ドラマを感じざるを得ない。
モチーフの人は、作品により様々な立場の人だが、その表情、仕草、フォルムから、何かが漂ってくる。

作者の視線がどういう方向へ向けられているか、わかるだろう。

素描や版画も多数あり、中にはなかなか面白いのもあった。物語のワンシーンぽいのは良い感じ。

ただ、なんでもかんでも展示すればいいってもんじゃない、とも思う。


良い展覧会でした。
せっかく紹介したけれど、もうすぐ終わるのが残念。



[メモ]
ドイツ表現主義の彫刻家 エルンスト・バルラハ
東京芸術大学大学美術館 (上野)
5月28日まで

巡回:6月3日から7月17日まで、山梨県立美術館





『ゴッホの手紙(下)』
ゴッホの手紙(下)
著:フィンセント・ファン・ゴッホ 編:J.V.ゴッホ・ボンゲル 訳:硲伊之助
(岩波文庫) 735円
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えー、『ゴッホの手紙』下巻です。
以前のエントリーで主なゴッホ関連は↓
上巻
中巻
《聖書のある静物》

この巻には1888から90年の手紙、主にテオ宛、が収録されている。
つまり、ゴーギャンとのアルルでの共同生活が、「耳きり事件」で破綻するちょっと前から、最期までの手紙が収録されている。

読むと、ゴッホのその時その時の考えが見えてくる感じ。
年譜的なもので知っていても、なぜそうしたのか、みたいな部分がちょっとわかる。
ゴッホの精神状態、どう思って生活していたか、色んな人物との関係、絵画への考え方、などなど。
とりわけ画家が画家として地位を掴むための情熱、色彩の効果への情熱、この辺はやっぱりすごい。

テオなくしてゴッホはなかったな……、と。


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たとえ誇張されていてもそれらの線が引き締まり決まるところからタブローが始まる、ベルナールとゴーガンの作品には多少そんな感じがする。樹を描くのにその正確な形を求めずに、形が円いか正方形かだけにこだわる……それで実際、その考えは間違っていない、写真の進歩とある種のばか者がいるのに憤慨しているからだ。彼らは山の正確な調子を求めずに、こう言うだろう、「おや!山が青いなら、青を塗っちまえ!そしていちいちもう少しこんな青だなんて言うな!青なんだろう?……それで青を塗ればいいし、それで充分だ!」

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さり気なく…
昨日で、韓国での交流展が終わった(はず/笑)。
盛況のうちに(と思いたい)。

うーん、どんな反応だったんだろ?




『ニキ・ド・サンファール展』
ニキ・ド・サンファール(Niki de Saint Phalle)[1930-2002]は、フランスのアーティスト。ヌーヴォー・レアリスムのアーティスト。
あ、女性。

●ちょっとだけ「ヌーヴォー・レアリスム」について説明●
1950年代、社会は物質の氾濫の時代を迎える。
そんな中、フランスでは「ヌーヴォー・レアリスム」という運動が起こる。
それに遅れて、ニューヨークではウォーホルらに代表される「ポップ・アート」が始まるわけである。
そう、「ヌーヴォー・レアリスム」の方が先。
「ポップ・アート」は、物質の氾濫の時代において、新しく生産、商品、溢れる物質ということを表現しようと試みたし、そういったものをモチーフにした。
それに対して「ヌーヴォー・レアリスム」は、捨てられた物質、死んだ物質を使って芸術表現をするわけです。いかに、こういった捨てられた物質、死んだ物質に生命をあたえるか、というのが命題だったわけである。
代表作家は、アルマン、セザール、ジャン・ティンゲリー、など。

そして、このジャン・ティンゲリー(Jean Tinguely)は、友人にして恋人にして夫にしてアーティスト仲間。だいぶ仲良かったと思います。

何から書こう。

とりあえず、展覧会は良かったです。おすすめ。理屈を超えて、感覚的に良い。
「アートは技術じゃない」、というのがはっきりと分かる展覧会。

ニキは18歳で美貌を買われモデルの仕事をします、『ライフ』『ヴォーグ』など一流紙で。
そして、20歳のころ絵を描き始める。
23歳で重い神経症になり、治療のために再び絵を描き始めるのだけれど、これが非常に効果があった。そこで、ニキは絵にはっきりと目覚めるわけです。
しかし、専門の美術教育を受けていないニキは、独自のやり方で描きます。
そんな時、後に夫となるジャン・ティンゲリーはこう言いました。
「技術は重要じゃない。夢がすべてだ。」
と。
これは、そうとうな勇気となったのではないだろうか。


彼女は、絵具を入れた風船を、銃で打ち抜いて絵を描いたり、「ナナ」っていう曲線豊かな女性像を沢山作ったり、架空の手紙を絵を添えて作ってみたり、ポスター作ったり、タロットをモチーフにオブジェや絵画を制作したり、と色々やっているのだが、その大部分がこの展覧会で一望できる。
特に、この手紙は面白かった。もう、なんか妄想爆発。「これだって表現じゃない!でしょ?」とどうどうと展示されているようで、その明るい配色や手紙のメッセージに、思わず魅せられてしまった。

女性としてのコンプレックスみたいなものとか色々と読み解くと深いようだけれど、僕は詳しくないので、いい加減な事は書かないでおきます。

ニキ・ド・サンファールの夢の中へでも入ったかのような展覧会。
Let's trip!!



[メモ]
ニキ・ド・サンファル展
@大丸ミュージアム・東京(東京)
5月22日まで





『ヘルマン・ヘッセ展』
ついに行ってきました。ちらりと紹介した展覧会。
ドイツの作家、ヘルマン・ヘッセの展覧会です。
ヘッセについては、
・『郷愁(ペーター・カーメンチント)
・『クヌルプ
・『荒野のおおかみ
・『シッダールタ
を。



さて、今回の展覧会、「日本におけるドイツ年2005/2006」の一環として催されているらしい。
ヘッセを詩人・小説家、としてはもちろんだが、画家という側面からもとらえ、豊富な水彩がが展示されている。
また、大量の本国ドイツの初版本、ヘッセの友人にして翻訳者の故・高橋健二氏の所有している手紙やコレクションなども多くある。
とくに高橋さんへの手紙は、いかに交流が親しかったかが伺えた。詩を添え、ドローイングも添えた手紙だったりと、宝物だった。
小説からの抜粋の文章、その他の著作からの文章など、パネルで要所要所に掲げられている。

20代最初の頃の詩で、未発表のものもあった。高橋氏の所有していたもの。
観に行けないあなたのために、書いてみよう。
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「ヴァイオリン弾きの最後の歌」

わたしはまじめな曲とおどけた曲を弾いた
金と婦人の好意を得るために
今 わたしの弓も手も心もとまってしまった
わたしは自分の技芸のすべてに吐き気がする。

おまえミューズよ かつておまえはよく
誇らしげに厳かにわたしに挨拶してくれた
白い清らかな衣装を着たおまえよ---
わたしはおまえを知っている わたしはおまえを知っている!

来てわたしと踊ってくれ そしてくちづけを
わたしが昔おまえにおくったくちづけを返しておくれ!
来てわたしと踊ってくれ わたしはおまえを愛している
愛している わたし自身と死を愛しているように。

今はじめてわたしはヴァイオリンを弾ける
あの夢は去った
今わたしはおんみらに見せようとおもう
ヴァイオリン弾きの王とはどんなものかを。

ひとつの歌を私は弾くつもりだ
とても荒々しく低劣に
悪魔たちが顔色を失って
ブラヴォーを叫ぶほどに。

その歌は 踊りそして死ぬ
喜びと汚れと苦痛にまみれて
醜く歪み 凌辱されて
わたし自身の心のように。

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さて、水彩画も多くあったけれど、んー、それについてはノーコメントで。
喜びは伝わってきた。

でも、やはり彼は文章がいいと思う、というのが僕の感想。

彼は園芸にも凝ったのは有名な話だけれど、庭に植物を育てることについて書いてあるのも良かった。小さな庭の中に、その中に如何に多くの意味を見出すか。視線があたたかい。

ヘッセがドイツで反戦の言葉を発表し、非戦論者として危険な立場に立たされ、スイスへ移住するわけだけど、その反戦の言葉も抜粋ではあったがパネルにしてあったり。

なんかね、いろいろ見つめてたんだな、というのがとっても伝わってくる。うまく言えないけれど。
それは、著作を読んでもわかることで、今更言うようなことではないのだけれど。


絵を描くことについてのヘッセの言葉。
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星を指揮し、自分の血の拍子を、自分の網膜の色彩園を世界の中へ移し、自分の魂の振動を夜の風の中に飛躍させるのは、また別なこと、もっと大きな事、もっと力のこもったことなのだ。

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これは、会場の入り口にある『デミアン』の一節のパネル。
『デミアン』のページをめくると、まずこの言葉があります。本文中にも登場します。






[メモ]
画家と詩人 ヘルマン・ヘッセ展
世田谷文学館
5月28日まで





《カール・ヨハン街の夕べ》
このジャンルでは、1人の画家について1点しか書かないつもりだったのだけど、またムンクを。


今回は、

《カール・ヨハン街の夕べ》
エドヴァルド・ムンク 1892年



ムンクについては、前回の《叫び》の時に書いたから省略。

この絵は、どうだろう?
《叫び》に負けず劣らず不気味に思うかもしれない。

右の黒い影がムンク。
道の奥には国会議事堂がある。
ムンクは奥へ進んで行く。
その他の人々は、こちらへ向かってくる。なんとも生気のない顔をして。

調べてみると、この歩いてくる大勢の人々は、服装からも分かるようにブルジョワらしい。
ブルジョワの規範と制約に縛られた人々、そして法と秩序の砦の国会議事堂。国会議事堂の窓は光を放ち、ブルジョワたちを見下ろしている。
などと、色々読み解けるらしい。

が、僕としては、そんなことはどうでもいい。

大勢の人々の流れに逆らい、ひとり逆行して進むムンク。
この絵に漂うのは、圧倒的な孤独感、それが重要だと僕は思う。

以下、ムンクの日記。
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通りがかりの人々は皆彼にいぶかしげな独特の視線を投げかける。
彼らが自分を見ている、じっと見つめているのを彼は知っている。
どの顔もどの顔も、街灯の光に青ざめている。
彼は何か考え事をしようと必死に試みたが、無駄だった。
頭の中は空っぽだ。
それで上の窓のほうをじっと見つめようと努力した。
そして再び通行人が彼の視線を遮る。
全身がわなわなと震え、どっと汗が噴き出す。
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ムンクの感じた孤独感、漂っていると思う。伝わってくる絵。
これは夢ではなく、ムンクの場合は現実。






しかし、前の《叫び》この《カール・ヨハン街の夕べ》を描いた十数年後、こんな絵を描いてます。

《太陽》
452.4×788.5cm(でかいっ!)

うーむ、どうですか。