『
マダム・エドワルダ』
著:ジョルジュ・バタイユ 訳:生田耕作 (角川文庫) 504円
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ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)[1897-1962]は、フランスの思想家・小説家。
「エロティシズム」ということについて、徹底的に考察した人。
バタイユが生まれたときから父親は盲目であり、後に発狂した。母親もその後、バタイユの見ている目の前で発狂し、何度か自殺未遂を繰り返した。
バタイユは始め、敬虔なカトリック信者だった。が、その後信仰をなくし、ヘーゲルなどに没頭。特に、ニーチェを通して、徹底的に神を否定する立場になる。
殊に「エロス」と「死」についてたくさんの執筆をした。
さて、満を持してというか、ついにバタイユを読んだ。
今回読んだ本には、
○マダム・エドワルダ
○死者
○眼球譚
○エロティシズムと死の魅惑 講演・討論会記録
が収録されている。
『マダム・エドワルダ』や『眼球譚』は、バタイユの代表作。
生田耕作の名訳で贈る本。
エロいっ!エロいっ!!変態っ!グロいっ!
が、端的な内容です(笑)。
が、ただのエロエロヘンタイだったら、こうして歴史に残るわけもなく、他に読みたい本もたくさんあるのにわざわざ読むわけもない。
そこには、深い哲学があるわけで。
どの話も、隅々までエロスに満ちているわけだけれど、人を捉える「エロス」というものが、一体何なのか?という問題が作品の下に流れている。
バタイユは神を否定したと上述したが、代わりにこの「エロス」が神的なものなわけです。すなわち、暴力的なまでに絶対的な力、というものをそなえている。
また、バタイユは、「恍惚的快楽は戦慄を伴ってはじめて実現する」と言っている。これは、エロスと死に関する考察にもつながってゆく。
ともかく、登場人物たちは、尋常じゃなくぶっ飛んでいる。
でも、本能的な衝動の強さ、を見ることができると思うんですよね。そこまで支配する「力」は一体何なのか。
そんなことを考えつつ読んでみたりすると、行間が見えてくる気がする。
また、『眼球譚』の第二部以降は、ヒント的な解説の面を見せ、作中のあのシンボルは何を意味していたのか、などが徐々に見えてくる。
最後の『エロティシズムと死の魅惑』という講演は、実際に1957年2月12日にパリで行われたバタイユの講演とその後の討論会の様子を、各自の発言まで収録したもの。
出席者にはなんと、ハンス・ベルメールやアンドレ・ブルトンなどもいます。
「生」「性」「死」によって人間を描いた、エロティシズムによる神秘。
やはり芸術を考える上で、「生」「性」「死」というのは基本となってくる3本柱で避けられないもの。
「エロティシズム」に関する代表的作品。
・・・グログロだったりしますが(苦笑)。
余談ですが、最近、「光文社<古典新訳>文庫」というのが発刊されていて、その中に、この作品もあるのですが、『眼球譚』は『目玉の話』と訳されています・・・。なんたるナンセンス。
読むなら、生田耕作訳で読むことをおすすめします。上品ぶらずに、どかんと卑猥に訳している名訳。