アーティスト 加藤雄太 のブログ
展覧会のレヴュー、本の感想、その他制作の日々の模様など。
ホームページは yutakato.com 作品掲載してます。

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◆8月の掲示板的な◆
作品 200708

やっと夏本番、な天気になってきた、かもしれない最近ですね。

「市中は物のにほひや夏の月」

と凡兆が詠んだのに対し、芭蕉が

「あつしあつしと門々の声」

と続けたことを、太宰先生は『天狗』の中でコテンパにしちゃいました。
が、あつしあつしだった今日8月1日。


パネルもドカッと注文したのが届き、描きたいものも増え続けている。
暑さに負けずに頑張りたい。がんばろう。
今月末で、このブログも2年になるのかな。気づけば50000アクセスも越え。いつもありがとうございます。今月もどうぞよろしくお願いします。



[画像]
《記憶の予感》
2007/07/31
岩絵具、板
16.0×27.3cm
《Expectation of Memories》
Powdered mineral pigments on wood
※画像の無断転載・転用は禁止です
2周年
今日で「半地下の手記」は2歳の誕生日を迎えました。

いやはや、よくぞ続いたものですね(笑)。
1周年の時も同じようなこと言ってますね(笑)。

始めに比べれれば、更新頻度は激減なのですが、もうちっと頑張りたいぞ、と思っているので、あたたかく見守ってくださると嬉しいです。

微力ながらも発信できている。
わずかな人数であっても、作品に共鳴して個展へ足を運んでくださった方々がいる。
届いているのですね。
今後もBlogの可能性を探って行きますぞ。


本や展覧会の稚拙なレビューが中心ですが、いつもご訪問ありがとうございます。本当に本当に。
もっと洗練かつマイペースを(笑)、磨いていこうと思うので、どうぞよろしくお願いします。
下見
打って変わって涼しい日。
とは言っても、30℃弱あるんだから、今までが余程暑かったのだろう。

さて、使いたい絵具がなくなったので、ちょっとだけ買いに渋谷へ。



その後、ついにあそこへ行く…。
11月から個展をする「こころとからだの元氣プラザ」へ。
そろそろ現地を見ておかなければと思い、飯田橋へ。

駅を出ると、見えるくらい近かったです。
こころとからだの元氣プラザ1

正面から見るとこんな感じ。
綺麗でした。
こころとからだの元氣プラザ2

駅から近くてアクセスは良い。

ギャラリー部分はガラス張りで、通りに面しており、内部がよく見えます。
こころとからだの元氣プラザ3

今は、彫刻の方が展示をされていた。

自分が絵画を展示することを考えてみると…
難しい!
立派で綺麗だが、平面作品の展示は難しそうだ。
ギャラリー内で周囲を見回しながら、だいぶ考え込んだ。

しかし、メラメラと逆に燃えようじゃないか。
この個性的な展示環境をどう活かしきるかは、僕の問題である。

楽しみにしていてください。
『セラフィタ』
本『セラフィタ』
セラフィタ
著:バルザック 訳:蛯原徳夫 (角川文庫) ※現在絶版
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オノレ・ド・バルザック(Honorè de Balzac)[1799-1850]は、フランスの小説家。何かと名前は耳にするであろう人物。
バルザックもゾラも、とにかく書いて書いて書きまくった。ゾラはすでに『制作』の記事でも述べた「ルーゴン=マッカール叢書」を書いた。そして、このバルザックは90篇からなる「人間喜劇」を創った。両方とも、膨大な作品量を通して、人間というものを描こうとした大作である。
大の社交界好きだったバルザック。晩年はぶよぶよに太ったのは有名。
コーヒーも、日に50杯くらいがぶ飲みし、執筆した。
とても豪快な人物である。


さて、今回の『セラフィタ』は、とても神秘的な物語である。
バルザックの母親が神秘主義者だったこともあり、バルザックにもその性質は受け継がれたらしい。

今、このエントリーを書くにあたり、久しぶりに手に取ってみるが、あまりごちゃごちゃ書くことが出てこない。
あまりに綺麗だからである。
それは、風景描写とかそういった意味ではない。
精神が、である。

主人公は、セラフィタ・セラフィトゥス。男性と女性、両方の原理を備えた、つまりアンドロギュヌス(両性具有)的人物。
セラフィタは女性の時の名前。セラフィトゥスは男性の時の名前である。
セラフィタに対して恋する男性。セラフィトゥスに対して恋する女性。この3人を中心に、話は進む。場所の移動はほとんどなく、したがって本書は精神の話となっている。

あぁ…
あーだこーだと、述べ立てることが憚れるくらい、崇高な物語。
セラフィタのあまりの美しさに圧倒され、登場人物ともども、ただただ感じるしかない。

セラフィタが昇るとき、一つの神秘の結婚が行われる。
この世の争いやいざこざが愚かしくなり、綺麗な気持ちになるのです。


旧漢字なあたりが読みづらいけれど、慣れですね。


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貴方がたの幾何学によると二點間の最短距離は直線だとしていますが、貴方がたの天文學によると神は曲線しか用いていないのです。

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以前のバルザック記事は、
『知られざる傑作』
可能無限
ぬあっ!

勉強が足りないっ!!
『ドリアン・グレイの肖像』
本『ドリアン・グレイの肖像』
ドリアン・グレイの肖像
著:オスカー・ワイルド 訳:福田恆存 (新潮文庫) 620円
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オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)[1854-1900]は、アイルランドのダブリン出身の小説家・戯曲家。『サロメ』などで有名な、19世紀末の作家である。
1895年、人気を博した作家となっていたワイルドであったが、同性愛により逮捕され、刑務所暮らしとなる。この後は悲惨な人生であった。97年に出所するが、服役中に破産宣告を受けた。晩年はセバスチャン・メルモスという名で過ごし、パリで死んだ。


何とも不思議な、大変面白い作品。

貴族のヘンリー・ウォットン卿、画家のバジル・ホールウォード、そして美貌の青年ドリアン・グレイ、の3人を中心にした物語。
バジルがドリアンの肖像画を描くわけだけれど、それがとてつもない魅力を持った作品に仕上がった。
ドリアンは絵の前で思わず呟く。
「いつまでも若さを失わずにいるのがぼく自身で、老いこんでいくのがこの絵だったなら!」
ドリアンは自宅にこの絵を飾るわけだけれど、あるとき気がつくと、何と願いが叶っているではないか。自分は老けず、絵が老け込み、自分は醜悪なことをしても、絵が醜悪な表情になっていく。
最初は喜んでいるんだけれど、だんだん絵を見ていられなくなり、誰の眼にも触れないように気を配り……。
といった内容。

ヘンリー卿は快楽主義者で、頭はいいのだけれど、あえて世間とズレたがる人物。だが、その妖しさが人を惹きつける。
一方ドリアンは、元々はとても美青年で、おとなしい性格で上品で。でも、ヘンリー卿と出会って、ヘンリー卿の妖しい魅力に強く感化される。若さと美しさの重要性に気づくよう教えたのもヘンリー卿であり、その結果絵の前で願いを口にし、気づかないうちに絵との不思議な神秘の契約も結ばれることになった。

もう単純に話が面白いです。
ヘンリー卿の言葉、ドリアンの変化、飽きません。

もともとドリアンは願いが叶ったのに、それに苦しめられる結果となった。
人間の欲望、願望、その先にあるもの…。
特にドリアンの場合、人間の生物としての絶対の宿命に逆らったものだったわけで。リミットが外れると、人間はおかしくなってしまうものらしい。
ファウストとメフィストフェレスの関係を思い出す。

小説中には、キラリと光る言葉がたくさんある。この作品のキラリは、妖しくキラリ、である。ヘンリー卿の台詞も多くがそうだ。解説の言葉を借りれば「刺戟的逆説」が魅了する。いかに頭のキレた人物かが分かる、考えさせる言葉たち。

バジルは、ドリアンと出会って絵が格段に良くなる。
描く風景画にはドリアンが入っている、とバジルは言う。
そして、ドリアンの肖像画には、バジル自身の魂が入っていると言う。
ここに芸術の面白さがある。筆先に理屈を超えたものが入ってしまったのだ。


魂の契約をしてしまったドリアンの変遷も。
ヘンリー卿の言葉も。
面白く読める作品です。


それから、ワイルドといえば、「芸術のための芸術」。
序文にも痺れましょう。


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芸術が映しだすものは、人生を観る人間であって、人生そのものではない。
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或る芸術作品に関する意見がまちまちであることは、とりもなおさず、その作品が斬新かつ複雑で、生命力に溢れていることを意味している。
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忠実さの中には激しい所有欲がかくれている。なにしろ、この世の中には、他人にひろわれる心配がなかったら、惜しげもなく捨てさることのできるものが無数にあるのだから。
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桜桃をぼんやり口に運ぶ。真夜中にもぎとられたもので、月の冷たさが滲みこんでいた。
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『サーカス展』
何だこの暑さは。ボイルされているような暑さ。
が、レッツアクティヴである。
駅で体調悪くて30分闘う。
が、レッツアクティヴである。

新宿へ。
期待とかはまったくしていないけれど、一応チェックするつもりだったので、観に行ってみたのです。

展覧会『サーカス展』

サーカスをテーマとした作品を集めた展覧会。
ピカソクレーシャガールなど海外作家9人と、国内作家18人の作品が出品されている。

派手さがある、とかそういった事はないし、画家を寄せ集めたのね、と言われそうなところだが、意外や意外、なかなか良かったのです。
「サーカス」をテーマにしたのが成功した感じ。
サーカスをテーマにした有名がかの作品を連続して観るのは、良い体験だった。同じ主題を扱っても、サーカスの如くそれぞれの味を楽しめる。

特に、ベルナール・ビュッフェジョルジュ・ルオー、マルク・シャガールの作品に惹かれた。
素通りしてしまいそうな何てことない画面。が、ちゃんと画面を見つめてみれば、ビュッフェのセンス、ルオーの表現力、シャガールの雰囲気、に改めて感銘を受ける。

他にも、マティスの切り絵による「JAZZ」シリーズ(マティスは「サーカス」というシリーズにしたかったが、画商の意向で「JAZZ」になった)なども見ることが出来きます。

でもやっぱり僕は、ローランサンとレジェは好みじゃないなぁ、とも思った(笑)。


日本の作家に関していえば、あまり良くなかったと思います。パリなどに留学して現地の画家の影響やらで、サーカスを描いてみるわけですが、それだけに「自分」というものが足りない。おフランス帰りザンス、的なものを感じてしまって、僕はダメでした。いや、そうそうたるメンバーなんですけどね…。


パネル解説では、近代サーカスは1770年頃にイギリスで生まれた、と書いてあったけれど、僕が知る限り、サーカスの起源はエジプトです。ジプシーの文化がサーカスだったわけで。貧しかった彼らが、移動式住居とともに旅して回りながら芸を見せ、生活をしていたのが、最初のサーカスの起源。北へと進む中、ヨーロッパに輸入されたはず。
ヨーロッパでは今でも移動式遊園地とかありますよね。

そのため、サーカスを扱った作品って、どこか異国情緒溢れると言うか、メランコリーやジプシーっぽさが多いと思う。そういった感じが僕は好き。
アーティストが絵のモチーフとして選んだのも、そういった部分が影響しているだろうと思う。


絵画によるサーカス展。
猛暑のなか涼みに観に行ってみても、良いと思います。

夏休みなのでちびっこが多くてビックリ。



[メモ]
解き放たれたイメージ サーカス展
損保ジャパン東郷青児美術館 (新宿)
9月2日まで
こうして力をつけるのである
どうしようもない暑さにくてんくてん。
早起きにしくじり、展覧会へ行けず。

が、一度歩き出せば、体はしゃんとするものだ。
午後、銀座の Aux Bacchanales で、N先生と会う。6月下旬に会って以来。
春までは毎週会っていたのに……。そう思うと、一度一度を濃密にしたいと思う。

銀座の別の喫茶店へ移動。僕の近作の写真をお見せし懇談。

いつも僕は、自分の作品に自信を持っているし信じている。が、それを確信へと変えてくれるのはこの瞬間だ。

心の中で握り拳をつくり、おっしゃ、と叫ぶのである(苦笑)。
そう、よかったのです。ますますヴィジョンも開けた!
はっぴー、Happy!
んふふ…、なにがどうなっだって?まだ秘密です。今後にご期待下さいませ♪


夕方、再び Aux Bacchanales へ戻り、作家さんなど、皆さんと合流。
うおや一丁 へ移動しアルコホリック。

うおや一丁にて 2007年8月
皆さん↑
左から、画家の有坂さん、加藤雄太、日本画家の黒須夏子さん、N先生こと美術評論家の中村先生、デザイナーの内田さん、画家の黒須信雄さん。

シャッター押してくれた店員さんが若干手ブレですが(苦笑)、こういう写真は極めて貴重ではないかと……。

いやはや、なんとも濃厚な会話が飛び交っていたかと思います。
だって全員が全員、知識人かつクリエイティヴ。
小生はひたすら日本酒と煙草を飲んでいた気がします。

それにしても、体がエネルギーを得るのは、こういう時だと思う。
刺激を受けたときの内なる振動というのは、とても嬉しくありがたい。不思議な高揚と心地よさ。

終盤、ここでも自作の写真をお見せし、とても良いものを得られた。
次の個展、やりますよ!僕は!


明日というか今日はバイトだ。6時前に起きなきゃ。では、おやすみなさい。
戸田橋花火大会
昨夜は、荒川での花火大会だったのです。

以前、うちの目の前の荒川の様子を見せました。
で、その後知って驚いたのだけれど、何と、まさにあそこが打ち上げ場所!!
つまり、目の前……。素晴らしいっ♪

僕の部屋からの眺めはこんな感じ↓
戸田橋花火大会1

目の前の木がちょっと邪魔ですね。
なので少しだけ移動してみると……

こんな感じ↓
戸田橋花火大会2
素晴らしい!!


アルバイトで、朝、品出しをしている時、こっそり「花火ぴあ」を見て調べてみたら(笑)……
なんか有料席もあるらしく、人出は44万人とのこと。

戸田橋花火大会3

昨日もアルバイトだったので、18時前くらいに地元の駅まで帰ってくると、人人人。
駅内のお店も幕がかかって営業してないし、ベンチも閉鎖、トイレも閉鎖。
道路は当然閉鎖。
中央分離帯までブルーシートで場所取り(笑)。

戸田橋花火大会4

それにしても、目の前で見れて感激でした。

花火を見ると、いつも泣きそうになる。
何が心をとらえるのか。
スケールや綺麗さ、も、そうなのだろうけれど、しかし花火の本質は「儚さ」だと思う。
ほとんどの花火は所謂「見頃」の状態を1秒と保たない。
その瞬間性で美しさを爆発させるのが、響くのだと思う。
これがもし、何時間も何日間も空に同じ状態を保ったら、この不思議な感動とは違うものになってしまうだろう。

戸田橋花火大会5

ヒューゥと音を立てながら一筋の線を描き昇っていくのを眺めている間の、期待している時間。
その後の瞬間の美しさ。
でも、その姿をとどめ所有することは出来ない。

あぁ、そうか。
花火の「花」って、その形態だけではなくて、咲いては散っていくそのサイクルも意味に含んでいるのかもしれない。

体に来る振動が心地よかった。


そういえば今日は、仙台で七夕祭り前夜祭の花火大会ですね(だよね?)。
一昨年くらいまでは、毎年行っていたけど、ここ最近ご無沙汰。
『ルドンの黒』展
すっごい楽しみにしていた展覧会。
この夏のハイライトの1つでしょう。
早速行って来ました。

展覧会『ルドンの黒』

オディロン・ルドン(Odilon Redon)[1840-1916]は、フランスの画家。
木炭や版画の黒という色彩のみで作品を数多く残した。後年は解き放たれたかのように、彩やかなパステル画や油彩を描いた。
パリでは印象派が誕生し、徐々に隆盛していたのにも関わらず、ルドンはひたすら黒という色彩で描き続け、時代の匂いを敏感に感じ取ったかのような画面やその画風により、象徴主義の画家となった。
描かれた絵は、画家の創造力を源泉とした非常にユニークな画面で、不思議さと奥深さを兼ねそろえている。
といった人で、僕の大好きな画家の1人。


展覧会は「ルドンの黒」というタイトル通り、上述した色を使い始める前の黒い絵をメインに構成され、最後の部屋に鮮やかな色彩の絵が展示されている。
全200点のボリュームある展覧会。
とても良かった!

ルドンは様々な文学作品の挿絵も多く描いているのだけれど、そういった一連のシリーズもしっかり見ることが出来る。

それにしても、黒が深い。
漆の世界には「漆黒」という言葉があるが、まさにそういった類いのもので、単なる黒を突き抜けた魅力がある。
静かな、沈黙の世界の、饒舌。

以前の、『澁澤龍彦 幻想美術館』でもパネルで澁澤の言葉が紹介されていたように、ここにあるルドンの黒は、もうすでにあらゆる色彩を内包していて、後年のパステルや油彩は、ただその秘められていた色彩を解放しただけ、というのが、作品を観ていると良くわかる。

植物学や天文学、ダーウィンの進化論に哲学、そして文学。色んなことに興味を持っていたルドン。本当に貪欲な人というか、好奇心旺盛だなぁ、と。そういった色んなことが、作品に反映してくるのがすごい。

ルドンの創造力が生んだ怪しくも魅力的な世界。
その世界を前に、黒の中へ深く深く吸い込まれてゆき、鮮やかな色彩に夢のようにたゆたう。そうやって自由に感じれば良いのだと思う。


大量に見られるチャンス。オススメです。



[メモ]
ルドンの黒 眼をとじると見えてくる異形の友人たち
Bunkamura ザ・ミュージアム (渋谷)
8月26日まで