アーティスト 加藤雄太 のブログ
展覧会のレヴュー、本の感想、その他制作の日々の模様など。
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◇3月の掲示板◇
作品 200803

予想通り、気づいたら3月、という具合でした。やっぱり。

今月からアルバイトを増やしてみたり、6月からとあることができそうだったり、9月の個展へ向けて経済的準備を。

2月までのめまぐるしい日々を終え、ふぅっとしながら、ぽつりぽつりとポートフォリオを作ったりしてます。
最近は、もりもり本を読んでいますが、レヴューを書くペースは上がらず(苦笑)。
展覧会鑑賞も復帰し始めた今日この頃。更新頑張ります。
今月もどうぞよろしくです。訪れた記念にコメントをどうぞ♪


[画像]
《見えざるもののために》
2008/02/01
岩絵具、板
112.0×145.5cm
《For an Invisible》
Powdered mineral pigments on wood
※画像の無断転載・転用は禁止です
『モディリアーニ展』
展覧会『モディリアーニ展』

こないだの木曜日。始まったばかりのモディリアニ展へ行った。
モディリアニと言えば、去年「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」へ行って、改めて、良いなぁ、と思ったということは、その時記事に書いた。今回はモディリアニの単独展示ということで、楽しみにしていたのです。

アメデオ・モディリアニ(Amedeo Modigliani)[1884-1920]はイタリア出身の画家。パリのモンパルナスを拠点に活躍する。エコール・ド・パリを代表する画家の1人であり、重要な画家である。
以下、前回の記事から引用すると、元々体は弱かったようだが、その美貌で恋多き人生だった。パリに移ってからは、女たらしとして知られ、酒と麻薬に溺れ、貧困の中荒れた生活を送り、結核性脳膜炎で35歳で死去。その悲劇的な人生は良く知られたところである。
ジャンヌ・エビュテルヌ(Jeanne Hèbuterne)[1898-1920]は、画家でモディリアニの最後のパートナー。解説を読んだ限りは結婚はしてないのかな?ただし、婚約はしていた。モディリアニとの娘も1人いる。彼女に関する資料はほとんどないらしく、モディリアニと出会う前に関しては、良くわからないらしい。
モディリアニが32歳の時、当時18歳のジャンヌと出会い恋に落ちる。その後、生活をともにし、モディリアニが35歳で死んだ2日後に、ジャンヌもアパルトマンの6階から身を投げ、悲劇的な最期をとげた。その時、お腹の中には2人目の子供を妊娠中だった。


さて、展示は数多くのモディリアニ作品が一堂に会し、初期から晩年まで様々な作品を見ることが出来る。その甲斐もあって、初期の所謂モディリアニっぽくない、モディリアニ的なスタイルに到達する以前の作品なども見ることが出来た。
今回の展覧会では、プリミティヴという言葉が多用されキーワードになっているようで、つまりプリミティヴ(原始美術)から受けた影響に力が入っていた。
モディリアニに限らず、ピカソなどのアトリエにも、ある時期突然アフリカの彫刻や仮面が収集されるようになった時期がある。当時彼らは、こういったアフリカなどの民族が持つ原始美術に強い影響を受ける。ピカソなんかはそこから《アヴィニョンの娘たち》などへ至るわけだ。
モディリアニも相当に影響を受けたようで、その様は展示を観ていると明らか。

僕としては、こいうったものにはあまり熱狂したりはしないけれど、興味深く鑑賞。
美しいものを作ろうとする場合、「美」という観念がある。それは、芸術家にとっては切実な問題であるが、一般的に考えた場合、軽く言ってしまえば余剰のものであろう。
しかし、原始的・民族的な美術について考えを巡らせてみると、そもそも彼らには美術作品という観念はないであろう。アルタミラ等の壁画も然り。
それはつまり生活の一部として存在していたということだと思う。五穀豊穣を願ったり、狩りの獲物を神に祈ったり、などなど。日本でも、有力者が死んだ場合、一緒に埋葬した美術品などがある。作品として手元に置いておくという考え等無く、王が寂しくないように、とかそういった発想だ。
これらの作品は今でこそ作品としてポジションを与えられており、またこうしたことからその作品には呪術的な魅力があるのだと思う。
なんというか、言語化できないようなフォルムだとか、人間の祈りの部分に触れるような、そんな感覚。

モディリアニっぽいスタイルの作品は、前回のBunkamuraでの作品とダブるところも多かった。まぁ、良い作品だったから問題ないのだけれど。
ただ、同じようなテーマの、つまりメランコリックで哀愁漂う人物像であるが、そういった作品でも、やはりぐっと惹き付けられるものとそうでないものがある。
暗い色調がほとんどだが、モディリアニの作品はその色が美しい。作品の雰囲気を、見事に全体の色が支えている。
しっかり塗られている作品がある一方、極めて薄塗りで下地やキャンバスが見えてしまっているものもある。しかし、作品を見たとき充分な深みと存在感があるからすごい。逆に、こってり塗っていても、存在が薄っぺらく感じられ、長く見る気になれない作品もある。やはり芸術作品の強さは技巧ではないと僕は改めて認識した。技巧云々しているうちは、いつまで経ってもこういった画家たちの世界は遠くにあるだろう。

開始2日目ということもあって、モディリアニとしては非常に空いていた。好きなだけ観れる状況。
行って損は無いと思います。



モディリアニの前は、銀座の画商さんのところへ行く。個展で買って頂いた作品にサイン等を入れる。額装が進んでいるらしい。
お昼をごちそうになり、その後コーヒーもごちそうになりながら、色々と話をする。
いやいや、飛べそうです。とても実のある話となりましたよ。作品をものすごく気に入ってくれているのが何より。
色々とフィールドが広がりそうで、そういったことが期待できる話し合いとなりました。
あぁ、こないだの個展で本当に良い出会いができたなぁ、と改めて感動。
終了後、書店フレンドさんと待ち合わせ、六本木へ行きモディリアニ。
観賞後は、地元駅のわりと近くにあるカフェへ初めて行ってみる。これがすごく雰囲気が良く、秘密基地にしたいような場所。本を持ってまったりとした時間を過ごすのにうってつけな感じ。リッチなときは通いたいと思った。



[メモ]
モディリアーニ展
国立新美術館 (六本木)
6月9日まで
季節
帰宅際に玄関の前ですること。郵便受けを開け、郵便物を確認すること。これは僕の楽しみだ。葉書や封書が入っていると、それだけで嬉しい。
それだけに、チラシだけだと、多少ガッカリしたりもする。
また、職業柄、DMはとても多い。

先日もいつものように確認すると、封書が一通。敬称は「先生」。
ハンコが押してあり「掲載誌在中」となっている。
『美じょん新報』という月刊の美術系新聞に、こないだの僕の個展の展評が載っていた。それは大変小さな記事だが、伊豆新聞を除けば、兎にも角にも初めてメディアに取り上げられたのだ。万歳。
そういえば、会場にそこの出版社の人が来て、話している時にメモを取っていたことを思い出す。
でもこれは、一体何処で買えるのだろう…(苦笑)。見かけたら、手に取って頂けると幸いなり。


最近のあたたかさの甲斐もあって、朝家を出ると、向かいの桜の木が花を咲かせていた。いよいよ桜の季節。甘い香りが鼻に触れる。
姿も美しいが、匂いも美しい、と思う。
同時に桜は郷愁を誘う。
決してピンクなどとは言えない、弱々しいまでの薄い薄い薄紅色。
間もなく散りゆくことを知っているが故に、より心に届く。

桜ばかりに目がいきがちだが、よくよく見ると、色んな草花が忍耐の季節を終え、胎動し始めている。1つ1つ見つける発見が、嬉しい。

黄砂の所為か、晴れてても富士山が見えない日々だったので、見るものが増えて良かった。




木村大 with HEXANOISE 「威風動々」ツアー
今回も行ってきました。度々記事を書いている「木村大」君のコンサートへ。
彼はクラシックギタリストなのですが、まぁ、その素晴らしい天才っぷりについては以前の記事をご覧下さい

木村大 200803-1

今回は、みなとみらい大ホールということもあり、アンプを使う試みだそうで、挑戦することを始めなければ、とアンプを背中に置いての演奏。
そして、ストリングスが数名いました。この辺が今までと違うところですね。

木村大 200803-2




  今回のセットリスト→





うむむ。『フォーコ』(「LIBRA SONATINE FOR GUITAR lll.Fuoco」)があるっ!初めて行ったコンサートの時のアンコールがこれだったのですが、是非もう一度観たかったから、始まる前から期待が高まる。再び「光になる」のだろうか。
相変わらずの、指がつりそうな超絶な速弾き!
『ムーンタン』は大君のためにアンドリュー・ヨークが書いた曲ということもあり、彼のコンサートでは定番ですが、もうすっかり体の一部といった感じの演奏。

個人的にはストリングスとの編成という珍しい演奏で聞けた『タンゴ・アン・スカイ』がゾクゾク来た!このヴァージョンのCDが欲しいと思う。

僕はクラシック音楽には全然詳しくないけれど、単純に好きだし、興味はある。
そんな僕がいうのもなんですが、やっぱりすごい。彼はすごい。
こうして今回もまたその歴史を体感できて良かったと思います。


木村大 200803-3終了後は恒例のサイン会。
今回もモルスキンにGetする♪
そして再びプチ宣戦布告を…(苦笑)。まぁ、詳しくは語らないことにしましょう(笑)。


今回で3回目だけれど、未だ聴けずにいる『4つのヴェネズエラ風ワルツ』がいつか生で聴きたい。聴きたい聴きたい。ここをご覧になっているようでしたら、是非次回は曲目に入れて下さい。

それにしても、弾いている時の姿が印象的だ。
ある種のトランスと言えば良いのだろうか。
明らかに何か“見えないもの”を見ながら演奏しているように見える。
或いは、振動する空気の奥深くにあるものを探り見つけ、それを表出し続けているように僕の目には映る。
身体とギターと周りの空間が、明らかに境界を無くしている状態。
音楽芸術に触れる瞬間。

同世代の人間がそれをやっているのだから、燃えるじゃないか。
その状態を画家に置き換えるとどんな状態だろう、などと考えてみる夜。


ドブロガーのれるさんも行かれたようで、こちられるさんの記事です。音楽専門家ならではの鋭い批評。浮かれてる僕とは違います…。
『みずうみ 他四篇』
みずうみ 他四篇』 1849年
著:シュトルム 訳:関泰祐 (岩波文庫) 420円
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本『みずうみ』

テオドール・シュトルム(Theodor Storm)[1817-1888]は、ドイツの作家、詩人。
弁護士の息子として生まれ、自身も大学で法学を学び、卒業後弁護士となる。その後、国同士のいざこざによって、判事になったり、あるいは故郷フーズムの知事になったりした。つまり、実に人生の大部分をこういった法務に従事した作家である。しかし、30歳頃には、既に抒情詩人として知られていたようだ。最終的には、ドイツを代表する作家の1人となる。
テオドール・シュトルム

今回の本は短篇集。表題作の『みずうみ』の他、『マルテと彼女の時計』『広間にて』『林檎の熟するとき』『遅咲きの薔薇』、が収められている。
『マルテと彼女の時計』(1847)が、シュトルムの処女作であるらしく、しかし、既に魅力的な作品となっていた。

色々と小説や論文を読んでいる中で、文章中にたびたび「湖畔」という作品の名前を目にした。この「湖畔」はきっとシュトルムの「みずうみ」のことだろう、と僕は思い、気になっていたので読んだのである。

今、残っている印象としては、やはりまず、綺麗です。そして、静か。
「みずうみ」という題名の力もあってだろうけれど、作品全体の感じとして、まだ若干肌寒い早朝、森の中の、多少霧のかかっている湖畔のような質感を感じる。湖面が静かにゆっくりと漣がたっているような、そのしんとしている振動を見ているような。
静かさと郷愁で満たされた、美しい世界。

暗い室内、薄ぼんやりとした室内、作品の持つ色調としてはそういった感じだが、それはそれはとても澄んだ、心地よい冷たさなのだ。

そういった印象ばかりが残っていて、話の内容自体が回想されないので、いつかまた読み返してみたいですね。
良質な眠りのために
最近は何故か残業することがたびたびあり、大量の雑誌をうんしょうんしょと翌日のために開封して準備しているうちに、あ、定時が、といった具合な日々。

直したい習慣。
帰ってきて、ご飯を食べると、強い睡魔に襲われる。そのとてつもなく強烈なこと、抗い難し。
2・3時間後に目を覚まし、お風呂に入って、本を読んだりして、夜中になり、寝ようとしても寝付けず、そして早朝バイトへ…。あるいは、休日ならば、激しく眠り続けたり…。
これではいかんっ!いかんぞっ、自分っ!
ということで、寝ずにいようと固い決意をするのだが、もうどうしてもご飯食べると眠いのです。
しかし、今夜こそは。と、思い、こうして筆、いや、キーボードをとってみる。


売り場で見かけた良さげな雑誌。

・月刊 PLAY BOY
月刊の方です。週刊とは違って、知的な匂いのする方です。
あの人の書斎が見たい、みたいな特集です。まぁ、作家の書斎の写真が掲載されているのだけれど、それがなんと、ガルシア・マルケス、ミシェル・フーコー、カート・ヴォネガットJr、などなど。ちなみにマルケスはMacユーザーでした。嬉しい(笑)。

・Coyote
柴田元幸の特集。氏の翻訳は読んだのあるし、未読のも積んである僕としては気になった。彼が翻訳した海外作家のインタヴューも充実していそう(しかも、気になる人たちだったり)。欲しいが、この雑誌は高い(苦笑)。





『若きウェルテルの悩み』
若きウェルテルの悩み』 1774年
著:ゲーテ 訳:高橋義孝 (新潮文庫) 420円
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本『若きウェルテルの悩み』

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)[1749-1832]は、ドイツの小説家・詩人。その才能は文学に留まらず、科学や哲学にも及んだ。シラーとともに、この時代のドイツを代表する文学者。
ゲーテ自身が「詩は10歳のころから作り始めた」と言っているが、現存する最古の詩は8歳の時のものである。
ゲーテの父は、ゲーテに家庭教師を数人つけて教育を施した。語学に長けていたゲーテは、少年時代で既に、英語・フランス語・イタリア語・ラテン語・ギリシア語・ヘブライ語を習得していたらしい。
あらゆる分野に興味を持っていたことは、例えば『色彩論』という色彩に関する論文があることからも分かるだろう(僕は未読)。そして、ゲーテといえば『ファウスト』であるが、これは着想から完成まで、実に約60年かかった。
82歳で死ぬまで、恋にも研究にも著作にも精力的に生きたゲーテ。死ぬ前の最後の言葉「もっと光を!」は有名である。


そんな名高きゲーテの、名高き『若きウェルテルの悩み』です。
青年ウェルテルが、主に友人のウィルヘルムへ宛てた手紙による書簡体の小説。田舎へと移ったウェルテルが、そこで書いた手紙である。ホメロスを愛読したりしながら、静かに過ごす予定であったのだろう。しかし、ロッテとの出会いにより、彼の心身は激情の中へと投げ込まれる。
可憐で優しいロッテを愛してしまったウェルテルと、既にアルベルトという婚約者のいるロッテ。
親しい友人への手紙という書簡体の小説故に、ウェルテルの日々の心の動きが、ロッテを巡る初めから終わりまでが、緻密に語られている。それはロッテを想う極めてプライヴェートな世界である。

多感な青年の心理を巧みに描いた作品、などというのは方々で語り尽くされた月並みな表現のだろうけれど、そうなのだからそうなのだ。仕方ないじゃないか。
読むと、無駄なく1字1字の隅々まで、青年ウェルテルを見出すことができるだろう。ほんの1行2行であっても、ウェルテルが入り込んでしまった世界を感じさせる。ゲーテの人間観察もあるのだろうが、それとともに、自信の経験を作品へと昇華するその上手さ。

初めから報われない恋だと知っていつつも、止めることが出来ず、自殺してしまうウェルテル。発表当時はスキャンダラスで、世間を騒がせたらしい。実際に、この作品の影響で自殺も流行し社会問題となった。

考えさせられる、印象的なシーンも多い。
知り合った作男が殺人を犯してしまう。未亡人を愛するが故であった。しかし、彼の気持ちを痛烈に理解できるウェルテルは彼を擁護する。このあたりから、精神の錯乱、死への動きは加速し始める。
クリスマスも近い日、ロッテの家で、知り合って間もない頃ウェルテルが訳した『オシアン』を朗読する場面。この詩が、2人の内へと入り込み、説明の要らない涙が湧き上がる。2人の感情は一気に高まって、溶け合う。しかし、ロッテはウェルテルを押し離し帰すが、ウェルテルは初めて本当に心へと響く「愛されていた」という確信を得た。
自殺のピストルを得るため、旅行に行くからピストルを貸してくれ、とアルベルトに頼んだ内容の手紙を書き、使いの少年に持たせロッテの家へ行かせた。使いの少年が手紙を持ってきた時、ロッテは目的を瞬時に理解したが、自らピストルを取ってきて少年に渡した。そして、ウェルテルはそのことを知って、狂喜したのである。

一心不乱なウェルテルの行動は、ストーカーのようだ、ととらえられがちのようだが、僕はそうは思わない。お話にならない議論である。ちゃんと読めば、節々にあらゆる証拠を見出すだろう。

兎に角、綿密なウェルテルの心情の描写に、ただただ圧倒される。もどかしい現実に歯ぎしりしながらも、なんとか日々を生き、他の世界はウェルテルの中から一切消え失せる。
そこに描かれているのは、もはや小説の登場人物ではなくて、リアルな悩める青年である。またそれは、過去のあなたかもしれないし、今のあるいは未來のあなたかもしれない。

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ねえ、君、努力が強さなら、どうして過度の緊張がその反対ということになるんだ。

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『≒草間彌生 わたし大好き』
≒草間彌生 わたし大好き
(2008年 日本 100分)
監督:松本貴子 出演:草間彌生
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映画『≒草間彌生 わたし大好き』

渋谷のライズXへ。草間彌生のトキュメンタリー映画を観る。
映画館が、見辛さ満点のライズXなのが残念だったけれど、まぁ仕方がない。

草間彌生(くさまやよい)[1929-]は、画家、彫刻家。前衛芸術家、という肩書きで紹介されることが多いし、本人もそう望んでいるようだ。
1950年代後半にニューヨークへ渡り、大きなキャンバスに網をひたすら描いた作品で有名になった。その後、反戦を訴えるため、戦争するならセックスしろ、とのメッセージを込めた路上での乱交「ハプニング」などにより、押しも押されぬアーティストとなる。ウォーホルなどとも交流があり、彼にアイディアを盗まれた、という話は有名。
小説も書き、芥川賞候補になったことも。
沢山の水玉や、男根を表した無数のソフト・スカルプチャー(柔らかい彫刻)などが有名なアーティスト。人気者なので、少なからず作品を見たことがあるのではないでしょうか?
基本的に、無限の如く反復されるモチーフたちは、オブセッション(強迫観念)を克服する手段である。つまり、自分にとって恐ろしいものを、あえて自ら繰り返し創り出すことによって、その中に消滅させ、恐怖を消す、という動機からなのである。
視界に水玉が見えてしまう妄想などに悩まされ続けた草間の表現はそうして生まれた。

他にも色々とあるのですが、映画について書けなくなってしまう(苦笑)。またの機会に譲りましょう。


映画は酔ってしまうような手ブレなんかがリアルで(笑)、下手にアーティスティックに撮ったり演出したりしていたいところに好感を持った。
それ故に、「生」の感じがして、これだけ長時間草間彌生の創作や生活に密着した映像を見ることは興味深かった。

油性マジックでガンガン描いていく姿は新鮮で、溢れてくる線は見ていて面白い。

揺るぎない自分への信頼。そして、自信。
そう…、それが無いとアーティストなんてやっていけない。

韓国海苔、僕も大好き(本編を見れば分かります)。



こうして、濃密な日を過ごし、それを肴に酒を飲んだのでした。
『国立西洋美術館・常設展』
九君の落語を観た後、上野駅へもどる。リンタロウ氏のお力により、なんとキャブ。うん、タクシー。なんと高級な移動手段…。

昨日の予定としては、その後、草間彌生のドキュメンタリーを観に行く予定だった。しかし、次の回の上映まで時間があるので、国立西洋美術館の常設展でも観よう、ということになる。

いってみると、なんと無料観覧日。足繁く美術館へは通っている僕ですが、こういう日があるとは知らなかった。というか、普段は常設展なんて観ること稀だしね。

いやいや、良かったですよ。ロートレックより良かったかも(笑)。
会場は混んでいて、常設展でこんなに混んでいるなんて有り得ないくらいの人の数。まぁ、企画展よりはずっと空いているけれど、あくまで常設展としては、人が多かった。ことに、外国籍の方々。日本人と半々くらいだった印象がある。

初めはここの常設展ではおなじみの、ロダンの彫刻。これは一瞥を与え、そく絵画の方へ進む。
15世紀くらいの絵画から始まり、時系列順に展示してあった。
この頃の絵画は、圧倒的に聖書や神話を題材にしたものが多い。それと肖像画や歴史画である。技法はとことんアカデミックであり、分かり易く言えば”如何に上手く描けるか”に精力を注ぐのだ。

ところでこの頃は、聖書を庶民が読む、ということはほとんど不可能であった。何故なら、印刷技術がなく、1冊1冊修道士たちが手で書き写していたからであり、たいへん貴重なものだったからである。だから、人間が写す以上誤植が生まれる。その誤植のある聖書をまた写す。ということの繰り返しがどうしても発生してしまうので、現在でも翻訳が困難だったりする。
しかし、グーテンベルクが1447年に活版印刷術を発明する(このことについては以前も書いた)。これこそ画期的な発明であり、初めて誤植なく本を量産するということが可能になったのだ。
とはいっても、まだまだ聖書は高価なもの。なので、聖書を主題にした絵画が多いのは、歴史的にも当然のことなのである。画家が、聖書の内容を絵にすることによって、民衆は物語を理解し、信仰心を強めるのである。
絵画は非常に重要な役目を担っていたのだ。

展示を観ていると、ブリューゲル親子、ジョルジュ・ド・ラトゥール、などの作品もあった。

そして、19世紀の展示に来ると、クールベやマネが現れる。
身のまわりの何でもないもの。自分のいる現実、というものを主題に描いたクールベ。
大胆に、フラットな塗りを始めるマネ。
いやー、こうやって順に観てくると、本当に新鮮で衝撃でした。
マネが当時どれほどスキャンダルだったかは、想像に難くない。肖像画が展示されていたのだけれど、その大胆さったらもうっ。凄まじい勇気を感じてしまった。

そして、印象派の作品が並ぶ。
個々まで来ると、もう全く違う世界。凄まじい変化を目の当たりにできる。
印象派の革新性については、こちらをご覧下さい
モネの良い作品もありましたよ。

あとは、ゴーギャンですね、やはり。僕の大好きな。しばらく眺めてました。

こうして、時系列に観ていけて良かった。久々に見直せた。
絵画が表面の写実を離れるあたりから、画家の自我を感じる。そうして、写実を離れるのは、むしろ離れざるを得ないといった感じであり、当然と思う。
絵画に吹き込むもの、というのが、ある瞬間から変わり、向こう側にある本質的なものを見つめ始めたということだろう。




『エンター亭 雪之丞寄席』
昨日は非常にアクティヴな日だった。
仙台系の友人が落語をやるというので、前々からバイトの休みを申請しておく。

エンター亭0803 里見

上野へ。駅で、元うちの店舗で働いていた社員のリンタロウ氏と合流。会場へ向かう。
「マカ」と「グッスミン」を差し入れに購入。対極のベクトルだ。
歩き始めるも、会場がひたすら遠い。遠すぎるので、ドトールとブックオフへ寄り道しながらも、なんとか台東区生涯学習センターへ。

ここでは、エスタックイヴこと仙台友達の彼は「梅見亭九」という名前であった。「九」と書いて「いちぢく」と読むらしい。1字で9だからいちぢく。洒落ている。
九君が落語をやるとこなんて初めて見る。話は前回の個展の最終日に遡る。搬出が終わり彼との酒の席で、「来月落語やるから来てよ」「あ、その日バイト」「個展毎回行ってるじゃん」「はい。行きます」

エンター亭0803 里見君


本番前で緊張しているはずの梅見亭九さん→




僕は落語は全くの素人。好きな気はするし興味もあるが、ほとんど触れたことがなかった。

彼の演目が始まってみると、面白い。「看板のぴん」という話。
空気を変えてしまった。
初めに、差し入れのマカとグッスミンをネタにしていたのもよかった(笑)。

落語って、多分に現代を吸収していくものなのだね。
ベースが合って、そこに時代が乗っかって、そうやって演じられるものなのだと知りました。

いやいや、いいもの見せてもらったよ。九君。
Mr.Activeとして名高い君ですが、座布団の上の君は、ますます生き生きしていました。

彼の番が終わり、早々と退出させていただく。今日はまだ長いのだ。