絵画における僕的ツートップの1人、ゴーギャンの著書。内容は、ゴーギャンのタヒチ滞在の模様を描いた紀行文である。
これがどーってこと無い。暇つぶしにどうぞ、という感じである。
故に、ゴーギャンについて、簡単に書いてみようかと思う。
ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)[1848-1903]はフランスの画家。セザンヌ、ゴッホとともにポスト印象派を代表するアーティスト。しかし、分類としては象徴主義にするのが通である。
父は共和主義のジャーナリスト。そして、祖母はフローラ・トリスタン。彼女は女性初のフェミニストとして有名で、女性解放運動を行った。ちなみに名前の意味は“悲しみの花”。
17歳で学業をやめ、見習い水夫となり、リオ・デ・ジャネイロへ初航海。その後、海軍に入り、北極圏を航海した。
71年には、株式仲買人となり、証券会社に勤める。73年にメットと結婚。シュフネッケルのすすめで、絵画への関心を持ち、絵を描き始める(趣味として)。
この後、けっこう滅茶苦茶な人生に…。
76年にサロンに入選。その後、ピサロやドガと知り合い、印象派展に出品した。
83年、35歳の時に株式仲買人をやめ、画家になる決意をする。けっこうスタートは遅かったのだ。
しかし、貧乏で家族と別居。妻のメットはコペンハーゲンに。ゴーギャンは86年にポン=タヴァンへ行き、絵が変わる!この後、ポン=タヴァンとル・プリュドゥを行ったり来たり。アルルでゴッホとの有名な共同生活も。しかし、アルルへ行った理由は、生活費がかからないからという曲がった理由であった(生活費はゴッホの弟のテオ持ち)。
パリにも戻ったりしたが、文明生活を嫌う。
そんなこんなで、1891年に、タヒチへ。第1回目のタヒチ滞在だ。本書『ノア・ノア』はこの第1回タヒチ滞在の模様を描いたものである。
タヒチでは文明に侵されていない文化に感銘を受け、自身の楽園を求めた。
2度目のタヒチ滞在では14歳の愛人を持ったり子供が生まれたりと、なかなかの奔放っぷりを発揮しながら制作したゴーギャン。
タヒチに何を求めたのか…。
ヨーロッパの息吹が、文明が、浸透していない世界。生命の輝き。そういった楽園を求めてゴーギャンはタヒチに滞在した。しかし、ついに見つけられずに、絶望のうちにゴーギャンは死ぬ。
97年には、自殺を決意し、大作《
我々はどこから来たか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?》を制作。その後、砒素を飲み死のうとしたが、あまりに多く服飲したため、嘔吐しすんでのところで生き残った。
1903年に心臓発作で死んだ。
地上に楽園を見出そうとしたが、それが出来なったゴーギャン。苦悩のうちにも、眩い生命の筆跡は掴んだ。
ゴーギャンの作品は、輪郭をはっきり描いて、内部を平面的に塗った絵ではあるが、そこには見事な調和がある。「抽象」はゴーギャンがこだわり続けたことであり、故にゴーギャンの絵には、対象のエッセンス、つまり本質が濃く、しかし不可視に定着されているのだろう。
写実の無意味性を説き続けたゴーギャン。己のうちで昇華させ定着させたタッチは、精神によってより澄んだものとなり、タヒチで触れた原色の世界によってより輝きを増したのだと思う。
「助言を1つ。あまり自然に即して描いてはいけない。芸術とは1つの抽象なのだ。自然を前に夢見つつ、自然から抽象を取り出したまえ。そしてその結果として生じる創造のことをより多く考えたまえ。」
しばしば目にするカッコいいフレーズがある。誰の言葉か忘れたが、
「絵画は無声の音楽であり、音楽は有声の絵画である」
というものだ。レッシングは『ラオコオン』の最初でこれを否定している。ゴーギャンもまたそうなのである。つまり、時間である。一目見れば、絵画や彫刻は全体を把握できるということである。絵画の力を信じたゴーギャンは、絵画はあらゆる芸術の中でもっとも美しいものだ、と言った上でこう言っている。
「すべては一瞬のうちに尽くされるのだ」
「なぜ枝を垂らした柳が“泣いている”と呼ばれるのか。それは下降する線が悲しいからだろうか。大カエデが悲しいのは、墓地に植えられているからだろうか。いや、悲しいのは色なのだ。」