アーティスト 加藤雄太 のブログ
展覧会のレヴュー、本の感想、その他制作の日々の模様など。
ホームページは yutakato.com 作品掲載してます。

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◇8月の掲示板◇
作品 200808

暑いですね。
そしてあっと言う間に時は流れます。

まずは、まだあと数日開催されているグループ展。
『画廊からの発言 ---新世代への視点2008 小品展』
2008年7月28日から8月9日
ギャラリーなつかb.p(銀座)

「新世代への視点」のサイト
僕が参加する小品展の出品作家
※全10画廊の地図もダウンロード出来るようです

そして、来月下旬からは、いよいよ個展です。
もう、本当にその制作に追われているというか。なので、遅々としてブログの筆は進まず、更新ままならずにすいません。
色々と気合い入れて頑張ります。



[画像]
《見えざるもののために》
2008/06/21
岩絵具、板
60.6×91.0cm
《For an Invisible》
Powdered mineral pigments on wood
※画像の無断転載・転用は禁止です
『イン・ザ・ペニー・アーケード』
イン・ザ・ペニー・アーケード』 1986年
著:スティーヴン・ミルハウザー 訳:柴田元幸 (白翠uブックス) 998円
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本『イン・ザ・ペニー・アーケード』

スティーヴン・ミルハウザー(Steven Millhauser)[1943-]は、アメリカの小説家。解説によるとミルハウザーは、大切なのは作品であって、作者は前に出るべきではない、との考えを持っているようで、あまり細かいことは知られていないらしいし、本書の解説にも書かれていない。

前々から気になる作家ではあったけれど、今回の作品で初めてミルハウザー作品を読んだ。そして、面白かった。

主に主人公となるのは少年たちで、これがミルハウザーの特徴らしい。
少年たちの視線を通した、とてもとても無垢な世界。本当にきらきらとしている。
かといって、子供の読み物、とかそういうことは一切なく、重厚な物語だ。

これは全三部、全七篇による短篇集なのだけれど、その全てが創造力に富んだ夢幻的な妖しさを秘めている。
夢幻的という言葉が本当にぴったりと合う…。

殊に第一部を占める『アウグスト・エッシェンブルク』。時計師の息子の少年が主人公であり、もともと複雑からくりは得意だった。ある日、美術館で観たからくり仕掛けの絵がきっかけで、からくり人形師になるのだが、これが面白い。
時計の領域を飛び出してからくりに興味を持つきっかけになる美術館でのエピソード。そこに描かれているのは、間違いなく1人の少年の姿だ。
そして、天才からくり人形師となっていく過程。
契約先での出来事。
登場人物たちとの会話に織り交ぜられる芸術論。
ただのファンタジーという言葉に集約できない深みのある話。その中に、そういった全てが入っていた。

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芸術作品の正しい目的は、見ている人間を静かな瞑想に導くことであって、驚かすことではない。
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全ての話を通しての印象は、夜更けにひっそりと街角で行われているサーカスのテントをこっそりと覗き見る感じ。闇にふわっと浮かび上がるテントから洩れたオレンジの灯り。そんな色彩を感じる。

現代のアメリカ合衆国の作家で、こんな人がいることが嬉しいし、作品が読めて良かった。
自由な視線が紡ぐ、妖しく魅惑的な物語。
ハッとさせられるフレーズにも多く出会える、完成度の高い1冊。おススメです。

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下を見ると、裏庭が消えていた。代わってそこには目もくらむ真白い海があった。こんもりと盛り上がった、不動の波をたたえている海。もしその瞬間に僕の視線がそれを捕えることがなかったら、波は間違いなく砕け落ちていただろう。(『雪人間』)
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目で触る
美術館へ行く度に、気になっている光景がある。
僕はその光景を見る度に、妙に残念な気持ちになるのだ。

「音声ガイド」がそれだ。
このマシーンで聴きながら、展示を観ている人々、の光景。

僕は、音声ガイドは使わない方が良いと考えている。
作品の前に立った時、何を思うか。それを大事にしたい。
もちろん、知識がないと理解できない絵はあるし(殊に神話、聖書、歴史画)、解説で理解が深まる。が、それはなにも美術館で展示を観ている時ではなくていいじゃないか。
大抵、展示室には展示の区切りごとに解説パネルがあるし、それでその場は充分だと思う。

作品の前に立った時、ポチッと番号を押して再生し、解説に耳を傾ける。ああ恐ろしや。
せっかく!!紛れもない肉筆の絵と対峙しているのに、その時の感触、絵と自分の内なる対話、感じること。それらを行う力が全然つかなくなってしまう。

音声ガイド自体、そもそも“誰かのフィルター”という極めて主観的なものを通過した産物であろう。
誰かの見方、を倣って何になるのか!
1番重要なのは、自分がどう感じるか、である。他人の意見は二の次だ。
言い尽くされた解釈や解説は世界中をまわっている。どこでも手に入る。しかし、作品と向き合った時の感触は、“その時のその場”でしか有り得ない。共有しようがない、自分だけの感動。

白洲信哉氏が言っていた言葉を思い出す。
「目で触る」

これだ!と思った作品と徹底的に向き合うこと。
まず、何よりも先に、自分で感じること。
その結果つまらないなら、つまらないのだろう。魅力を感じたのなら、酔いしれれば良い。

僕は作品鑑賞に(やったことないけれど)居合い、のような印象を持っている。
作品と向き合ったその一瞬間。まさに刹那で勝負は決まる。
それぐらい、緊張感溢れる出会いだし、それだけに自分が良いと思える作品に出会えた時は嬉しい。

自分の内なる声が何かを言う前に、まず最初にガイドの声に耳を傾ける、ということだけは避けて欲しいなぁ、と日々思います。

アインシュタインも言ってます。
「自分の目で確かめて、自分の心で感じられる人は少ない。」
実はポニョを観ていた、とか
長らくご無沙汰してしまいました。
ちょいと制作に追われてみたり、疲れが襲ってきたりで、なかなか記事に向かえず…。

えー少し前に、『崖の上のポニョ』を観てきました。
前々から行こう行こうと言っていたメリッサさんと、夜に電話でいつ行こうか、と話していると、「じゃあ今」。はい、GO。新宿へ夜に突然行き、レイトショーに滑り込んで(といっても初めの10分くらいは観れなかったですが)鑑賞。
いやはや、正直期待してなかったのだけれど、良かったですよ!これ。オススメ。
まず、平和。底抜けに平和。
何も構えずに観られる。ただただ楽しめる。
こういうのもたまにはいいなと思いました。

もうちょい、アーティストっぽい感想を言うと、制限のない究極の自由度。
ここまでやりますか駿さんっ!!と言いたくなる程だ。
その不思議状態への登場人物たちの無関心もまた素敵です。
構成が強靭であれば、様々な自由が許される、ということの良い例だと思う。


こっそり誕生日もありました。四半世紀を生きました。


バイト先のほぼ同期のユキヒロさんから、
「UTさん、鈴木亜美って知ってますか?」「知ってますよ」「興味ありますか?」「まったくないです」「ライヴのチケットが当たったんですが行きませんか?」
という不思議なお誘いを受け、時間も気持ちも余裕無しな上に、まったく曲に興味がなかったですが、気分転換に行きましょうとのことで、行ってきました。
恵比寿へ。
僕は所謂ライヴだと思っていたら、当日会場へ着いてみるとどうも違う。
リーバイスとMTVのお披露目イベントのようで、多くの関係者が。
会場もステージから通路が延び、中央にもスペースがあり、そこからまた2本通路が延びている。
始まってみるとアメリカ人っぽい素敵な青年がノリノリで司会を始め、リーバイスの秋冬モデルのファッションショーとともにライヴが。
歌っている間も、Numeroとか装苑とかモード系ハイファッション誌に出てきそうな外国のお姉さんお兄さんが歩いているという、初めてな感じのライヴでした。
歌手もモデルも超近く、目の前歩いている感じで。
鈴木亜美に関しては、僕の10年くらい前の記憶とは別人。細すぎて心配になるほど細く、顔も変わった気が。
曲はプロデューサーが変わったので、テクノっぽい感じで以前とは全く違い、楽しめてしまったです。
イベントは50分くらいで終了したと思います。


そんな感じでした。
制作に大変追われています。
ついに、大作にも手をつけ始め、まずはアトリエのスペース確保から、そして下準備。かなりエネルギーを注ぎ込むことになりそう。
DMも即刻作らねばなりません。
ドーピング生活再びです。
でもやはり、blogはblogで放っておきたくないので、なるだけ毎日書きたいですね。
『フェルメール展』
朝8時前。NTTの工事員から電話。今日、我が家はADSLからBフレッツになりました。
それにしても、8:30に来るとは……。早いっつーの。
その後、気絶(苦笑)。
で、14時くらいに家を出て、東京都美術館へ。フェルメール展を観るためである。

展覧会『フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち』

ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)[1632-1675]は、オランダの画家。17世紀を代表する画家の一人。
現存する作品は30点少々と、極めて少ない。この作品数でこの巨匠っぷりというのは、すごいことだ。《真珠の耳飾りの少女》で有名な、あの画家です。
生涯のほとんどをデルフトで過ごし、《デルフトの眺望》という作品も残している。UTさんが大好きな作品の一つです。
フェルメールは謎が多い画家でもあり、彼のことについては資料によってまちまちである。
生前は無名であり、死後評価された。と記述するものもあれば、生前もそれなりに有名で、死後、美術史から一度消えるが、その後再評価された、とするものもある。
いずれにしても、一度人々の記憶から忘れられてしまったことがあるが、19世紀になって現在の評価が確立したようだ。
その為なのか、作品は世界中に分散し、なかなか一堂に観る機会はない。
信用していいのかよくわからないが、フェルメール自身は画家としてではなく、画商として生計を立てていたらしい。
フェルメールと言えば、以前記事にした「カメラ・オブスクーラ」を制作に用いたことが有名で、ちょっと前に随分話題になった。
また、フェルメールの使う青は、宝石ラピス・ラズリを粉末にしたものである。当時、金よりも高価だったため、この青は非常に貴重なものだった。このことがよく話題にされるが、今UTが使っている岩絵具の「群青」はラピス・ラズリである。別に、際立って特別なことではないと、ここで言っておきたい。天然岩絵具が高い理由が分かっていただけるでしょうか。
話が逸れてしまいましたが、フェルメールは43歳で死去。なんとも惜しいです。


今回の展覧会は、超寡作のフェルメールの作品が、7作一気に展示されるという貴重な機会。うち、5作は日本初公開だ。
7作フェルメールの作品が一度に展示されるというのは稀で、今後日本ではもうないだろうし、世界的に見ても、本当に数少ない企画である。
絶対混んでいるとは思ったが、今行かなきゃ今後ますます混むだろうし、個展も近づいてくるので、行ってきた。アーティストUTさんにとって、描くこともだけれど、観ることも仕事なのである。
フェルメール作品の他、同時代のデルフト周辺の画家たちの作品も含め、全部で39点が出品されている。極めて数が少ないが、混雑を考えれば、これぐらいがちょうど良い。

美術館に着くと、10分待ち。なんとか入場すると、入り口付近は人がすごい。
フェルメール以外の画家たちの作品は、はっきり言って取るに足らない。列の後ろからさらーっと観てどんどん進んだ。
茂木健一郎氏が「雑魚に用はない」と言っていたが、まさにそのように展覧会は上手く観ないと。
全てを等質に観る必要はないと僕は思っている。自分の心に引っかかってくるものに向き合うこと。

さて、いよいよフェルメール連続7作。
最初の2作品を観て、あれっとなる。オーラがないのだ。
フェルメールの作品に感動できないとは、僕の感覚は腐っているのだろうか…、などと不安になった(笑)。
なんというか、この程度の作品なら、今まで足繁く通った展覧会で、色んな無名の画家たちが描いていただろう。

が、4作目以降!!まさに別人!!
特に《ワイングラスを持つ娘》と《リュートを調弦する女》。群を抜いてました。圧倒的。
そもそも、画風自体それまでの作品と全然違う印象を受けた。
けれど、この場合、技法云々よりも、作品に漂う妖しさがすごいのである。
絵画という静止した画面から、人間関係や描かれた人物の内に秘める思いが出ている。
思うに、フェルメールは、人間の心情を描く画家。
《ワイングラスを持つ娘》も《リュートを調弦する女》も、どこか妖しい艶やかさがあり、エロティックだ。
それは絶妙の配置や人物の仕草や表情から生み出される質感。何かこの人物にはあるな、と思わされるのだ。
あるいは、描かれた女性を通して、描かれない人物の存在を感じさせる。そういった凄さがあった。

結局、滞在時間のほとんどをフェルメールに費やしました。
ちなみに、滅茶苦茶混んでいるのは入り口付近で、フェルメールの作品は、結構見られます。
僕は、至近距離で好きなだけ眺めている余裕がありました。本当に贅沢な時間だったなぁ。
というように、上手く観るようにすれば、充分フェルメールを見ていられるので、またと無いであろう機会だし、オススメの展覧会と言って良いでしょう。

ちなみに、展覧会のサイトにあるように、直前の貸し出し拒否があり、最初の予定と展示内容が変わったらしい。


以前の『フェルメール 「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』の記事はこちら



[メモ]
フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち
東京都美術館 (上野)
12月14日まで
『新世代への視点2008』終了
新世代への視点2008-1

先週の土曜日をもちまして、『新世代への視点2008 小品展』が終了しました。

ご来場頂いた方、本当にありがとうございました。
僕自身は、初日と、他1回のみ会場に行ってみたのですが、その時の様子では、だいぶ賑わっていたと思います。

新世代への視点2008-2

会場へ足を運ぶことができなかった方も多いかと思うので、ちょっとだけ展示の様子を。
僕の作品がある壁を中心にですが、掲載しようかと。

新世代への視点2008-3

観に行ってくれた友人たちからは、良い感想をもらえたので安心安心。自信になりました。ありがとう!

新世代への視点2008-4

小品が2枚だけとはいえ、こうして選抜してもらえたことが嬉しいです。

新世代への視点2008-5

実際展示を観ると、色んな作家の作品が見られて面白かったですしね。

個展もいよいよ近づいてきているし、新たな感動を与えることができるような作品を観てもらえるよう頑張ります。
かなり変化した作品も描いてますので、どうぞお楽しみに!
夜につれづれ
突然の大粒の雨が多い。
そういえば、少し前、虹が見えた。曇り空。鉛色の赤みがかった空にかかる薄い虹が。
曇天に虹。


新たな月に入ると、即バイト先で情報誌を買い、展覧会をチェックする。
お金と時間の切実な問題故、あまり良いのが多過ぎても困るけれど、今月の展覧会をチェックしてみると、うーん、興味深いのがちらほらあるじゃないですか。
でも、多くは下旬以降から。
今はまだ、あまり観たいのはないなぁ。

なので、この隙に制作制作。
個展までと制作量を考えると、だいぶ追い込まれている。
でも、前回の個展で、この手のハードさは経験しているので(ホントにすごいすけじゅーるだったなぁ)、なんとかこなせるでしょう。と、自分を勇気づけています。


そういえば、昨日で「新世代への視点2008」が終了しました。
ご来場いただいた方々、本当にありがとうございました。
面白い企画だと思うし、出品作家に選んでもらえたことが、自信になっています。
個展ガンバル!
展示の様子も写真を撮ってあるので、明日あたりアップしようかと思います。
『サロメ』
サロメ』 1891年
著:オスカー・ワイルド 訳:福田恆存 (岩波文庫) 378円
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本『サロメ』
オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)[1854-1900]は、アイルランドのダブリン出身の小説家、戯曲家。今回の『サロメ』や『ドリアン・グレイの肖像』などで知られる。
1895年、人気を博した作家となっていたワイルドであったが、同性愛により逮捕され、刑務所暮らしとなる。この後は悲惨な人生であった。97年に出所するが、服役中に破産宣告を受けた。晩年はセバスチャン・メルモスという名で過ごし、パリで死んだ。

ワイルドは『サロメ』をフランス語で書いた。
そして、挿絵を描いたのはビアズリーであり、曲を書いたのはリヒャルト・シュトラウスである。
ワイルドは1891年にこの作品を書いたが、出版は1983年だった。英語版は1984年の出版である。
今回、岩波文庫版で読んだのは、ビアズリーの挿絵18点が収録されているからだ。訳は古い言葉が目立つが、しかし逆に古典作品らしさが出ており、作品の妖しさが醸し出される翻訳だと思う。

さて、サロメについて少し説明しておこう。
キリストの死は日本人にも深く浸透しているが、洗礼者ヨハネがどのようにして死んだかは意外と知られていない。このヨハネの死と深く関係があるのがサロメだ。
しかし、サロメは聖書の中にもわずかしか登場しない。新約聖書のマタイによる福音書とマルコによる福音書にわずかに見られるだけである。しかも、「サロメ」という固有名詞は登場しない。
そんなサロメを有名にしたのは、ギュスターヴ・モローの《出現》である。このことについては以前書いたので、そちらを参考にどうぞ。モローはこのサロメの物語を、生と死、男と女、愛と憎、など様々な対立要素を1つの画面に見事に収め、魅力的な作品とした。

そんな妖しげなサロメの世界の見事な戯曲が今回のワイルド作『サロメ』である。
サロメはユダヤの王ヘロデ(本書中ではエロド)とその妃へロデア(本書中ではエロディアス)の娘である。ヘロデは兄ピリポを殺し王の座についたのだった。
ヘロデアは自分を淫らだと言ったヨカナーン(洗礼者ヨハネ)を大層嫌い獄中に繋いだ。本当は殺してしまいたいが、王ヘロデはヨカナーンが聖人であることを知り非常に恐れる。聖人を殺すことなどもってのほかのわけである。
宴の席で、ヘロデはサロメに色目を使う。サロメはそれを嫌うが、ヘロデは自分に踊りを見せてくれたら、何でも好きなものを与えよう、と言う。サロメは本当に「何でも」くれるのか念を押し、王が間違いないと約束したので踊るのだが、これが「7つのヴェールの踊り」だ。
踊り終わり、何が欲しいのか王が聞くと、サロメは…
「銀の大皿に乗せて……ヨカナーンの首を」と答える。サロメはヨカナーンに恋をしていたのだ。しかし、ヨカナーンに口づけを求めても当然ヨカナーンは異教の女など受け付けない。そこへこうして絶好の機会が訪れたのである。
当然ヘロデは衝撃を受け、それだけはならぬっ!と断り、他のものなら何でもやるから、それだけは勘弁してくれというが、サロメは一向に譲らない。
「ならぬ」「ヨカナーンの首」「ならぬ」「ヨカナーンの首」が続くが、ついにヘロデは兵に命じ、ヨカナーンの首を持ってくるように言う。
銀の盆に乗って運ばれて来たヨカナーンの首を見て、恍惚となるサロメ。そして、その口に口づけし、「ああ!あたしはとうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン」。

これが、戯曲『サロメ』の流れである。
なぜ長々解説したかといえば、この中には、象徴主義の文学や美術に見られる重要な観念が入っているからだ。
象徴主義を語る時に、引き合いに出されるのが、次のポーの詩だ。
「この眠り込む、薔薇の香りを吸えば」
薔薇はもう生命を失っている。しかし、死んだ薔薇故に永遠に匂いを発し、美しさを保つのである。
このことが、サロメのヨカナーンを求める態度に見られるのは、もうお気づきのことであろう。
サロメはヨカナーンに恋を打ち明けても、一向に手に入れることができなかった。
しかし、ヨカナーンを殺すことによって、サロメはヨカナーンを永遠に所有したのである。
19世紀末という時代に、象徴主義の芸術家が見出した美がここにある。

このような妖しい魅力を持ちながらも、近づくと自らの身を滅ぼされてしまうような女を「ファム・ファタル(femme fatale)(宿命の女)」と言う。ファム・ファタルの代表は、このサロメ、と、スフィンクスだ。
ファム・ファタルを題材にした作品は多い。

本自体は薄く、戯曲なのでさらっと読める。
そして、妖しさに満ちあふれた内容だ。
作中には「月」が多く登場する。この月がまた象徴的なのだ。この夜に何かが起こる全長のような光を放つ月。登場人物たちも、この月の光に嫌な予感を受け、恐れる。
徐々に何かが起こりそうな雰囲気や、サロメのクレイジーっぷりが加速していく様は、本当に見事だ。

短いながらも完成度の高い物語です。
そして、新たな芸術の世界への入り口となるかもしれません。オススメの1冊。