午前中、絵に関してちょっと作業。
終了し、晴れているからどうするか悩んだけれど、アクティヴにいこうと思い、銀座へ。
有楽町の出光美術館へ向かう。
水墨画の展覧会。
山水画として周文(しゅうぶん)や雪舟から展示は始まり、牧谿(もっけい)や相阿弥など、その後大画面の屏風として長谷川等伯や狩野派、琳派、最後の方は文人画として池大雅、浦上玉堂や田能村竹田(たのむらちくでん)、富岡鉄斎などの作品が並んでいた。
講座の準備で、画集とかこれでもかと見たし、文献も読んで、へろへろになりながら準備しましたが、やっぱり実作は良さが何倍も伝わってきます。
特に今回個人的に見所なのは、最初の展示室が割り当てられている山水画。
日本の周文、雪舟、阿弥家の面々にしても、中国の牧谿や玉澗にしても、共通に胸に迫るものがあって。これは何かなぁ、と思いながら鑑賞。
一幅の掛け軸であるから、画面としては大きくない。
でもその中には、大きな自然が描かれている。
見ていると「こんなところにどうやって住むんだよ」と思いたくなるような自然の中に東屋や書斎がぽつり。
あるいは、大きな滝など壮大な光景に対峙して人がぽつり。
恐怖とも思えるくらいの険しい山中を、歩く人がぽつり。
そうやって大きな自然を大きな余白を使いながら描いて、人間を対峙させる。その中に、宇宙のような広大なものを見る気がする。
あまりに圧倒的な大と小というコントラストに不安になりながらも、捕らえようのない把握しようのない大いなる自然の中に、何かを見ようとしていたのではないだろうか。
生きる上での思想のようなものが、表れている気がする。
地球や広い自然が、こうしてあまりにも強大な無のような、あるいはどこまでも広がる余白のような、そういったものとして描かれ、実はそのような無ないし余白に思いを馳せることが人生では重要なのではないかと思われてしようがない。
その後の屏風もとても良くて、僕は将軍家の御用絵師としての狩野派に、講座の準備で色々と勉強しながらつまらなさを感じていたのだが、今日、狩野元信や狩野探幽のなんとも静かで幽玄な水墨を見て、ああ、こういう狩野派なら好きだ、と思った。
それと、長谷川等伯はやはりただ者じゃないです。
虎の迫真の存在感。超荒い筆致、なのに絵としてまとまっている。構図も絶妙。
等伯には彼特有の個性と言うか、オリジナリティみたいなものが確かにある。
そのあとに続く展示は、肩の力を抜いて観られる感じでした。
美術館をあとにして、折角だから数件だけ画廊を回ろう、と思い銀座へ向かっていると、「加藤君」と呼ばれる。
振り向くと、大学時代N先生の同じ授業を取っていた、懐かしい方が。40歳を超えた主婦なのに、勉強をしたくて大学生になっていた偉い方。
今は、鎌倉の国宝館で非常勤の学芸員をしているとのこと。
画廊を何件か巡り、帰宅。
やる気とエネルギーが増した。
これからどんどんやらねば。
[メモ]
5月31日まで