アーティスト 加藤雄太 のブログ
展覧会のレヴュー、本の感想、その他制作の日々の模様など。
ホームページは yutakato.com 作品掲載してます。

<< June 2010 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

『伊藤若冲 アナザーワールド』展
 昨日、日曜日だし遠出でも、と、電車を乗り継ぎ、千葉へと行ってきた。
 千葉の美術館といえば、佐倉にあるマイベスト美術館「川村記念美術館」。『ロスコ展』などで、何度か足を運び記事にしてきた。

 で、昨日はそこではなく、千葉駅から徒歩圏の千葉市美術館へ。
 伊藤若冲の展覧会を観るため。
展覧会『伊藤若冲 アナザーワールド』

 気になる展覧会ではあったのだけれど、行くかちょっと迷っていて、でも、長谷川等伯展レセプションでお会いし、先日の山本丘人展のレセプションで名刺交換させて頂いた、日本美術史家の方から招待券を頂いたので、これはきっと行けという啓示なんだ、と旅立ったわけです。

 それにしても、千葉って遠い!
 東京から数駅となりのつもりでいたので、余計遠く感じました。

 余談はさておき…。

 伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)[1716-1800]は、江戸時代の日本画家。京都の青物問屋「枡源」の長男。23歳の時、父源左衛門の死去に伴い、4代目を襲名するも、30代半ばに家業を弟に託し、作画三昧の生活に入る。一時期、美術史から忘れ去られていたが、近年『奇想の系譜』などをきっかけに再評価され、特にここ数年はブーム。

 今回は、以前の『皇室の名宝』展と違い、若冲の水墨画に焦点を当てた展覧会であり、掛け軸や屏風の水墨画が多く展示されている。

 会場に入ると、会期も終盤の日曜のせいか、それなりに混んでいた。
 最初の方の作品を見ていると、なんか若冲っぽくない。「こういうのも描くのか」と思いながら、近づいてキャプションを見てみると違う作家。どおりで。最初に違う作家の作品が少々展示されていて、その後、若冲の作品となった。

 若冲の作品になると、明確に「若冲だ」とわかる。最初に他の作家が数点あったせいで、余計にそのことを感じた。
 他の作家たちはピチッと決まっていて、それが“決まりすぎていて”固い。しかし、若冲は柔らかく、軽やかで、捕われず解放されたような筆跡である。

 伊藤若冲のことは、以前公民館の日本美術史講座でも授業をしたので、より興味深く観ることが出来た。
 若冲は、初めは狩野派に学んだのだが、いくら狩野派の手法を学んでも所詮狩野派の枠は超えられない。宋元画を学んで、おびただしく模写をしてみたけれど、宋元の画家が「物」に即して描いたものを“又描き”したところでかなうはずもない。ということで、自分で物にあたって描くしかない、と思い立ち、現実に、そして身近にいるニワトリなどのモチーフ。動植物などを描くようになった。
 ニワトリ数十羽を窓下に飼い、何年も形状を写し続け、それから観察を他の草木や虫、魚へと及ぼしていったのである。

 自然、今回の出品作もそういったモチーフが多い。
 小さな生き物、生きとし生けるものたちを、真摯に見つめた若冲だからこそ可能な、そのような表現がある。ユーモラスな形態なども、それ故だろう。
 若冲は、商売や金儲けには全く興味を示さなかったが、生き物には慈しみの心を持っていた。雀が捕らえられ売られているのを見て憐れに思い、数十羽飼って自宅の庭に放し飼いにしてやった、というエピソードは有名だ。
 そんな、優しさと、眼差しを、若冲の絵は感じさせてくれるな、と作品を見る機会がある度に思う。

 さて、今回の目玉は、《象鯨図屏風》である。これは、2008年に北陸の旧家で発見され(たしか、蔵かなんかから出てきたんだと思う…、記憶が曖昧)、辻惟雄氏の鑑定などにより、伊藤若冲の真筆と鑑定された、まさに若冲作品に加わりたてのほやほやの作品なのである。
 左隻に潮を噴いている鯨、右隻に鼻をパオーンとやっている象が、独特のユーモラスな形態で描かれた六曲一双の作品。
 まだ実作を生で見たことが無かったので、これを見れるとあって非常に楽しみにしていた。

 他にも、まるでデジタル画像を超拡大した時のように1cm四方くらいの小さな四角に区切られ彩色された「桝目描き」の作品《樹花鳥獣図屏風》も出ていたが、今回は静岡県立美術館所蔵のもので、以前観たプライスコレクションのものと比べるとあまり綺麗じゃなかったな。色が鈍かった。

 と、力の入った大作も出品されており、かなり気合いの入った伊藤若冲の展覧会だった。

 さりげない、僕らの隣にある生き物の世界。植物の世界。それを描いた作品には、不思議なリアリティがある。
 ひたすらに見続け、心を通わせ続けた若冲だからこその、「私にはこう見えている」という世界。愛すべき生命。
 こういうことを表現するのは、絵画でなければならない。
 自分にどう見えているか、という私的言語を絵画として持つこと。これこそが、画家にとって重要なのだ。

 鶴もニワトリも、なんと愛嬌のあることだろう。



[メモ]
千葉市美術館 (千葉)
6月27日まで
そういえば、銀座が遠くなった
 先週は、久しぶりに砂と会って、色々とギャラリー巡りをした。
 神楽坂で待ち合わせて、新富町や築地、勝どきなどへ行って、新宿の居酒屋でトーク。

オオタファインアーツ
 これは、勝どきのギャラリー、オオタファインアーツ

 観終わった後、砂とも話したのだけれど、もうあんまり銀座行かなくなったなぁ。
 銀座と言えば画廊街で、何百軒も画廊がある。でも、そのほとんどは貸し画廊。会期は6日間。70年80年代は、ものすごい勢いがあったらしい。展覧会をすれば売れる。銀座にスペースを持つと一流。それが上手く機能して、時代を転がしていたときもあったらしい。
 でも、今はそんな勢いは全くない。
 貸し画廊は、誰でも発表できるが、画廊は何の負担も責任も負わない。
 第2世代、そして第3世代と呼ばれる今次々に誕生している新しいギャラリーは、そのほとんど全てが銀座ではなく、その周辺にあるし、生まれている。そして、僕らの足は、どんどんそっちへと向かっている。結果、銀座に行くことが大幅に減ったなぁ、と。

 振り返ってみると、本当に銀座へ行くことが減ったのに気づき、そんなことを語った夜でした。実際はもっと強烈にだけれど。

 iPhoneやiPadもそうだけれど、なんかものすごい変化の中、大きく時代が動く瞬間に生きている気がする。
 その中を航海するのは、不安も多いけれど、すごく楽しい。頑張るさっ!!
『山本丘人展』
 六本木クロッシングを観た日は、夕方から日本橋高島屋へ行き、『山本丘人展』を観た。

展覧会『山本丘人』

 実は初日であり、展覧会を観た後、招待をお受けしていたので、向かいの会場でオープニング・パーティーに参加しました。

 山本丘人(やまもときゅうじん)[1900-1986]は、東京生まれの日本画家。当時の日本画壇に新風を起こすべく、創造美術を結成した、近代日本画の巨匠。加山又造なんかも弟子の1人。

 2005年に、割と大々的な山本丘人の展覧会を観て、これだけの数を観たのはそれ以来。
 今回は全3章構成で、1章は1921〜50年としてあり、抒情的な作品の時代。2章は1951〜1966年として、力強く峻厳な作風の時代。3章は1967〜1984年として、再び抒情的な作風に戻った時代。という具合。

 実際に、展示を観ると、見事にこの区分で作風が変わる。1章が柔らかく、軽やかな雰囲気だったのに対して、2章はグッと力強い画面になった。僕としては、どこかクールベの作品を思わせるような、レアリスムのような、そんな印象を受けた。
 そして3章では、まるで原点回帰のように、作風が再び柔らかくなる。
 こうした、画家の変遷がよく見える展覧会。

 また、世の中山本丘人展は多くあるけれど、そのほとんどは、この「第2章」の時期をメインにした構成になっており、丘人の晩年の第3章の時代を再評価する人がいなかったが、今回の展覧会は、その第3章を中心にした構成として、丘人という画家の姿を見られる内容となっているとのこと。

 展覧会自体は、とても良かったです。
 が。

 また、この時、山本丘人の作品を観ていて思ったこととして、僕の関心事は、こうした、特に「この時代」の所謂「日本画」とは違うものに既になっている、ということを感じた。
 鑑賞した作品たちとの距離感。
 こうしたことを痛烈に思ったのは、今回が初めてかもしれない。
 日々、自作のことを考え、制作し、またギャラリーや美術館へ足繁く通い、昔の作品も今の作品も、日本の作品も西洋の作品も、隔たり無く多く観てきた中で、自分なりに色々と考え、感じ、蓄積されてきているのだろう。
 確かに山本丘人の作品は良いのだけれど、強烈に胸に迫ってくる、とかそういったことはなかった。悪い意味での日本画臭なのかな。或いは画壇臭。こういった作品は、当時の時代とかそういった状況下で鑑賞するのと、今現在生きる我々が鑑賞するのとでは、まったく見え方が変わってしまうのか。
 この違和感がなんなのか。今はまだ、よくわからない。


[メモ]
@日本橋高島屋8回ホール (日本橋)
6月21日まで
『六本木クロッシング2010展』
 また間が空いてしまった!もっと更新しなきゃ!
 という強迫観念に苛まれ、サボっていた時期の展覧会紹介を。


 森美術館にて『六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?』
展覧会『六本木クロッシング2010』

 今年で3回目となる展覧会。毎回、若手アーティストを何人かピックアップし、紹介する展覧会だ。観に行くのは、初回となる2007年の以来。

 若手、と書いたが、既にアートの世界では非常に有名なアーティストもの参加している今回。例えば、森村泰昌も、こないだの写真美術館の個展でのチャップリンの独裁者を模した作品が展示されていた。
 そんな中、最近注目を浴び始めた作家ももちろん紹介されている。

 展示の種類はジャンルに全く捕われず非常に多様で、様々な表現を試みるアーティストが集まっていた。
 結構駆け足で、さっと観てしまったが、何より思うのは、「現代アート」の自由さだ。そこが現代アートの魅力の1つだし、これからの未来に向けての未知数の可能性でもある。
 その中で,時代に淘汰されていく作品は多いだろう、というかほとんどだろう。だが、この溢れかえる表現の中の何かは、100年後200年後にマスターピースともなるのだろう。
 それは、時間が経たないと結果は出ないが、鑑賞することによって、その可能性に触れること。かくも多様な世界に目を開くこと。目撃者になること。鑑賞者に取っては、もう価値の決まってしまったオールドマイスターたちの作品を見ることとは違う面白さがある。
 そして、作り手の僕としては、もちろん100年後200年後にマスターピースとして残る作品を作っていきたいし、そうしているつもりなのだ。

 

[メモ]
森美術館 (六本木)
◇6月の掲示板っぽく◇
作品 201006

 先月は、結構ギャラリーとか集中的にまわって(特に下旬)、なんだか色々とエネルギーを得ました。
 制作は、何度かほのめかしているように、今までの感じがベースにありながらもガラッと変わった雰囲気の作品に取り組んでいて、小品がぽつぽつと出来上がってきています。そろそろ、大きめのでも挑戦していこうかな。
 もう少ししたら、ちょっとずつホームページかここで公開していくかもしれないです。お楽しみに〜。

めっきり暖かくなってきたし、制作も展覧会巡りも英語も本読みも、ガシガシと取り組みたいです。


--お知らせ--



[画像]
《黄金色のモノクローム》
2010/03/04
岩絵具、板に寒冷紗
72.7×60.6cm
作家蔵
《…》
Powdered mineral pigments on cheesecloth mounted on wood
※画像の無断転載・転用は禁止です