今日は、日本画木曜会の後、梅雨の晴れ間に心動かされ、上野へ足を運び、東京芸大の美術館で開催中のシャガールの展覧会を観てきた。
ロシアで美術学校に通っていた頃は、授業や周りの学生に辟易してやめてしまった。この辺の回想インタヴューを僕は所有しているが、かなり毒を吐いていた記憶がある。曰く「絵と呼べるものは1つもなかった」と。
エコール・ド・パリの一員として、主にパリで活動し、オペラ座の天井画も制作。
バレエ「アレコ」の巨大な背景画4枚のうち3枚が青森県立美術館に収蔵されたのは、記憶に新しい。
さて展覧会。
会場に足を踏み入れると、地下の第1室と第2室は、実はシャガール以外の画家の作品がほとんどであり、かなりガッカリした。
とは言っても、ロシア。ロシア・アヴァンギャルドの国である。文化的に花のパリ等に遅れ、タイムラグでその芸術が伝えられ、後進国であった。しかし、ヨーロッパに学ぼうとする精神の一方、天才が多く生まれるのもまたロシアである。そういった国の同時代の画家の作品を観れたから良し、と思うのも1つの折り合いの付け方かもしれないけれど、やはり相当なガッカリ感。正直、大学の割に結構高い入館料を酷く思った。
しかしっ!!3階の展示(芸大美術館はアップダウンが鬼不便である)で挽回してくれた!
シャガールの油彩は、なかなかまとまった数を観ることが出来ない印象があるけれど、今回はそれなりの数のタブローが展示されていたのだ。
たしかに、1・2点ずつなら色んなところで目にする機会があるが、なかなか多くのタブローを1度に観ることが出来ない。
3階の初めの方にあった《緑色の恋人たち》という作品が、まず一気にそれまでの不満を解消してくれた。なんと言えばいいのかちょっと浮かんでこないが、聖なる感じもすれば、神秘的でもあり、童話の一場面のようでもある。かなりシンプルな構成ながら、注視に耐えうる、むしろ視線を離させない作品。
その後,オペラ『魔笛』のイメージ画が多く展示されている部屋を抜けると、大きめの作品が数作展示されている最後の部屋となる。
やっぱり、シャガール良いですよ。
一見ファンタジーの世界のような、夢幻的な世界なのだけれど、確実にそれだけには回収されない深さがある。
もちろん、とても詩的だし、夢のようだ。しかし、同時に切実さも漂う。明るいだけではない、魂の深みのような。
それを、とても軽やかな、自由な、構成で描く天性。軽やかだが、絵の持つ心理的重力は重いのではないか。
「もしある絵で、私が雌牛の頭を切り取り、それを逆さまに置いたとしても、あるいは時々絵全体をあべこべに描いたとしても、それは文学作品を書きたくてしたことではない。私は絵の中に心理的なショック、常に絵画理論によって刺激される心理的ショック、すなわち四次元を持ち込もうと思っている。例えば、道。マチスはセザンヌの精神で道をつくり、ピカソは黒人やエジプト人の精神で道をつくる。私は全く違う方法で道をつくる。私には、私の道がある。私は道に死体を置く。死体は、道に心理的な混乱を引き起こす。私は屋根の上に音楽家を置く。音楽家の存在は、死体の存在と影響し合う。そして道を掃除する男。道路を清掃するイメージは、音楽家のイメージに影響を与える。落ちてくる花束、等々。このようにして、私は心理的な四次元を絵画表現の中に受け入れ、二つは一つ混じり合う。」
それにしても、今回見て思ったのだけれど、当時のロシアの作家たちの作品には、通底して暗さが漂う。これは、もちろん時代背景とかが強く影響をしているのだろうけれど、本当にその土地の匂いというものが出るな、と思った。
文学で言うところの、チェーホフやツルゲーネフの世界で見たような空気があるように思った。
シャガールは、パリでこそ活躍すれど、やはりロシアの人であった。
[メモ]
10月11日まで