結構気になっていて、先日ようやく行ってきた展覧会。
国立新美術館での『アンドレアス・グルスキー展』。
僕は知らない作家だったので、どんな作品か知らなかった。でも、展覧会情報誌などに掲載されている、小さな画像を見て、「これは見なければならない」と瞬間的に思わされたのだ。
写真作品としてオークション最高額(2011年11月のクリスティーズにて、430万ドル)を記録したアーティストでもある。
とまぁ、そんな知識も事前情報もないまま、兎に角観に行って、僕は非常に感動したね。
作品はどれも巨大にプリントされて展示してあった。
そのどれもが、確かに写真なのだけれど、見ているとどうしても違和感を感じる。それがとても面白い。
つまりは、デジタルで加工してあるわけだけれど、当然修正箇所を目で確認などできないわけで、一見それは何の変哲もない写真なわけです。
ここでちょっと重要な話。
写真とは「写真」と書く。これは「真実を写す」という意味だと思いがちだ(実際僕も以前は当然そうだと思っていた)。しかし、それは間違いです。
「写真」は中国語で肖像画のこと。決して、真実を写す、という意味ではないのだ。
元々、写真の歴史を辿れば、肖像画について言及せざるを得ない。この辺のことは、以前
「写真について[第1回]」の記事で書いたので目を通して下さい。
大切なのは、写真にはきっと“真実がそのまま写っているのだろう”という暗黙のしかし確固とした共通認識がある、ということである。なぜなら、この暗黙のルールが共有されてなければ、人間の社会生活に大きな支障をきたすから。身分証も、はたまたアリバイや証拠写真も、なにも効力を持たなくなってしまう。だから、写真は“真実を写しているのだろう”ということで皆が納得していないと困るのだ。
因みに、写真は英語では photogragh であるが、photo は「光」、gragh は「刻み込まれたもの」、つまり「刻印された光」という意味である。これは、フィルムに関してはその通りであろうが、現在は周知のようにデジカメの時代で、デジカメにおいては刻み込まれているのは光ではなく、0と1という記号であろう。
さて、グルスキーの作品は、写真作品なわけだが、明らかな違和感を感じる。それは、刻み込まれた光を見ているのではなく、コントロールされた0と1を見ているからだろう。
これがとても面白く、刺激的だった。
一見なんの変哲もない。しかし、本能的に違和感を感じる。この体験が面白い。
また、多くの作品は反復性が強い。それが数メートルの巨大なプリントということによってより効果的になっている気がして、これは実作の前に立たなければ分からない質感であり、今回体験できて本当に良かったと思えることである。
単純にセンス良いし、写真の意味について考えさせられるし、良い展覧会でした。
1枚1枚の写真も、深いメッセージを持っているように思え、鋭い表現。
16日までだし、台風も来ているけど、必見だと思います。
[メモ]
9月16日まで