今まで、このBlogでもたびたび言及してきたように、僕の大好きなアーティストである内藤礼の個展。
内藤礼(ないとう・れい)[1961-]は、日本のアーティスト。「地上の生と世界との連続性」をテーマに作品を発表している。
内藤礼の作品は、本当にささやかに何かを配置することや、あるいは、本当にかすかな色をキャンバスにつけること、などによって成立しているインスタレーション。言ってみれば、作品も展示も派手ではないし、点数として数えるならば、とても少ない。もっと言えば、知らなければ、気にかけなければ、作品が展示されていることに気づかない人もいるだろう、そう言っても過言ではないと思う。
そしてそれは、今回もそうであった。
けれど、彼女の凄いところは、それでも展示が成立する。それどころか、非常に豊穣な世界に触れた、と感じさせてくれること。
僕個人の意見だけれど、巷で内藤礼について語られている言葉に度々違和感を抱く。
寄り添うとか、日常とか、そんなもんじゃないと思うんだ。
確かに一見、やさしそうで、おだやかそうで、そう言いたくなるのも分かる。でも、秘められたメッセージは、もっと深淵で、時に恐ろしい。
今回の展示で言うと……
今回の展示は、庭園美術館の館内のインテリアをそのまま活かし、数えられるほど少ない数カ所に、作品である木製の小さな人形が置かれている。という物だった。人によっては「これが作品なの?」と思うだろう。
そして、その小さな人形の多くは、鏡のすぐ前に置かれていた。
この人形の置かれ方に特徴が有る。鏡のすぐそばに、1人で、鏡の方を向いて置かれているのだ。
鏡には、人形の表情が映っている。
しかし、あまりに鏡のそばに置かれているものだから、僕たちは鏡と人形の間に頭を覗き入れることが出来ない為、その人形の顔を“直接”見ることは出来ない。目を合わせたいのならば、鏡に映った顔と目を合わせることしかできないのだ。
そして、人形は鏡の反射を通して世界を見て、認識する。決して直接世界を見ることはない。鏡が映し出すものを見続けている。
きっと、本当はこちらを向きたいのだと思う。しかし、不安なのだ。信じたいけど、まだそうはできない。様子を伺っている。
最後の展示室に行くと、周囲の壁には本当にかすかに色がついたペインティングが掛けてあり、部屋の端の方に1人だけ例の人形があった。
しかし、この人形。鏡に背を向けて、こちらを向いているのだ!最後の最後になって、漸くこちらを見てくれた。直接世界を見る勇気を出してくれたのだ。
ただし、この人形には1つ違いがあった。毛糸の帽子を被っていたのだ。そう、柔らかく温かく包んでくれるもの、つまり、守ってくれるものを身にまとうことによって、やっと直接世界を見つめる勇気が出たのだろう。
展覧会タイトルの『信の感情』の「信」は、「信じている」ということよりも「信じても良いですか?」という問いかけの意味合いに感じられた。
僕には、こういった一連の展示が内包し表すものが、社会や世界を映していると思えて仕方ないんだ。
情報はパソコンのモニターにディジタルとして溢れ、遠い場所の出来事をどこにいても知ることができ、一瞬でメールを送り会話が成立し、チャットなどでは知らない人と意見交換も出来る。
ITの進歩は豊穣な実りを手にさせてくれるし、娯楽は増えたが、それを行う自分は部屋に1人だ。
何かに映し出されていることや、反射を通してではなく、直接世界を見る機会はどれほどだろう?文字として目に飛び込んできたスリルに興味を持っても、それに何かしらの態度を表明しようとしたことはあるだろうか?
ゲーテは言った。「真実とは、本当は恐ろしい顔をしていて、我々はそれを直視できない。」
今回の人形たちにとって、世界はそういうものなのかもしれない。
だから、僕にとって内藤礼は、極めて同時代性の強い作家であり、社会的な作品であるとも思う。
良く言われるように、気づきや発見をたしかにくれる。しかし、それはすぐ隣のやさしさのようなものとは限らない。
小さな人形が鏡を通して、鑑賞者である僕たちや世界を認識していたように、我々は内藤礼の作品を鏡として、世界を認識するのだ。
--以前の内藤礼に関する記事--
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内藤礼 信の感情
11/22〜12/25 ※会期終了